シリアの化学兵器問題を巡って、武力行使に踏み込もうとしたアメリカは振り上げた拳を下ろすことになった。化学兵器の国際管理という妥協案を提示し、国際社会を納得させたロシアのプーチン大統領の存在感が際立った。プーチン氏が世界から非難されるシリアのアサド政権を擁護する立場を取るのには3つの理由があるという。作家で元外務省主任分析官の佐藤優氏が解説する。
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第1は、シリアがロシアにとって重要な武器市場だからだ。アサド政権はシリア国内を実効統治できていない。通常兵器ならば、シリア経由で他の中東諸国やアフリカ諸国に流れていく。さらにアフリカ諸国から、世界各国の犯罪組織にも武器が横流しされていく。ロシアはこの魅力的な市場を失いたくない。
さらにロシアで武器の輸出入を扱うのは主にGRU(軍参謀本部情報総局)だ。武器には定価がない。だから、このビジネスを利用してGRUは予算とは別枠の工作資金を調達している。アサド政権が倒れ、シリア経由の武器輸出ができなくなると、GRUの諜報活動に支障を来す。プーチン大統領としても、内政的にGRUを敵に回すような政策はとれない。
第2は、2014年にソチで行なわれる冬季オリンピック大会でテロが起きる危険性を除去したいからだ。1817~1864年のコーカサス戦争の結果、チェチェンを含む北コーカサスはロシア帝国に併合された。
この時、ロシアの支配から逃れオスマン帝国に亡命したチェチェン人の末裔がアラブ諸国(特にヨルダン)に多数いる。この人々はチェチェン人としてのアイデンティティを失っていないが、宗教はアラビア半島に浸透したイスラム教スンニ派の中でも原理主義的なハンバリー法学派の影響を受けている。その中には、アルカイダに共感を持つ人もいる。
エリツィン政権下の1994~1996年に行なわれた第一次チェチェン戦争では、土着のチェチェン人と中東チェチェン人の連合軍が自分たちの領域からロシア軍を駆逐した。その結果、チェチェンは事実上、独立を達成した。
しかしその後、内部で抗争が起きる。中東チェチェン人は独立だけでは満足せずに、隣のダゲスタンも併合し、世界イスラーム革命を達成するための拠点国家を北コーカサスにつくろうとした。そして、それに反対する土着のチェチェン人を殺害したのである。
1999年に当時首相だったプーチンが第二次チェチェン戦争を始めるが、土着のチェチェン人はロシア側について、中東チェチェン人武装集団の殲滅に協力した。そして、中東側の武装集団は解体され、2009年にこの戦争は終結した。
現在のチェチェン共和国政府のカディロフ首長らは、プーチン政権を断固支持しているのでロシアの傀儡と見られがちだが、それは実態をよく知らない西側ジャーナリストの見方だ。カディロフをはじめ第一次チェチェン戦争でロシアと戦った人々が「中東のイスラーム原理主義過激派に帰依したチェチェン人よりはロシア人のほうがましだ」と考え、モスクワに忠誠を誓っているのである。
アサド政権が崩壊しシリアがカオス状態になると、そこに中東チェチェン人の拠点ができ、ロシアにテロリストを派遣する危険が発生する。そうなると、2014年のソチ・オリンピックで自爆テロが起きかねない。このシナリオを避けるためには、アサド政権が存続し、シリアがカオス状態になることを避ける必要があるとプーチンは考えている。
第3は、プーチンのオバマに対する個人的嫌悪感だ。元CIA(米中央情報局)職員のエドワード・スノーデンの亡命をロシアが受け入れたことを米国が非難し、G20の際に予定されていた米露首脳会談をオバマがキャンセルしたことをプーチンは侮辱と受け止めた(実際には短時間の会見が行なわれたが、公式会談ではない)。
CIAのスノーデン捕捉工作が稚拙だったために同人がモスクワのシェレメーチェボ国際空港に滞在することになり、ロシアは迷惑をかけられた。自らの不手際の責任をロシアに転嫁するオバマに対し、「倍返し」で報復することをプーチンは考え、シリア危機を最大限に活用した。
※SAPIO2013年11月号