【書評】『ウォール街の物理学者』/ジェイムズ・オーウェン・ ウェザーオール著/高橋璃子訳/早川書房/2100円(税込)
【評者】鈴木洋史(ノンフィクションライター)
世界金融危機の最中、激しく非難されたのが「クオンツ」だった。高度な数理モデルを用いて複雑な金融商品を開発し、市場を分析して投資戦略を立てる専門家のことで、最先端の物理学や数学を学んだ人間が多い。
近年のウォール街に君臨するが、その手法が金融市場を暴走、暴発させたとして批判された。その際によく引用されたのが17世紀イギリスの株価暴落で大損したアイザック・ニュートンの言葉で、本書でも紹介されている〈星の動きは計算できるが、人の狂気は計算不能だ〉。
自らも物理学者である著者は、そんなクオンツ悪玉論に疑問を抱き、そもそも物理学や数学と金融はどうつながっているのか、なぜ物理学者や数学者はウォール街に飛び込んだのかそれを明らかにするため、重要な役割を果たした学者たちの人生と理論を軸に金融工学の歴史を叙述した。
物語は、19世紀末のパリで初めて確率論を用いて株価を予測したフランス人(ルイ・バシュリエ)から始まる。パリ大学に入学するつもりだったが、すでに両親はなく、田舎の妹と弟に仕送りする必要があった。そこで、大好きな確率論を応用できると考えて証券取引所で働き始め、やがて投資理論を確立する。
だが、学者としては不遇で、理論が正当に評価されたのは半世紀以上あとだ。1960年代から今日に至るまで投資の実践で並外れた実績を作ってきたアメリカ人(エドワード・ソープ)は、子供の頃、家が貧しく、まとめ買いした粉ジュースをバラ売りして稼ぐなどしていた。長じてカリフォルニア大学大学院に進んだが、生活が苦しく、ルーレットを研究して荒稼ぎするなかで理論を確立した。
1990年代に複雑系の理論を投資に適用する投資会社を設立した2人のアメリカ人(ジェームズ・ドイン・ファーマー、ノーマン・パッカード)は、ベトナム反戦思想の影響を受けた反体制派で、会社を設立したとき「EAT THE RICH」とプリントしたTシャツを作った。他にも、大学を追い出された異端の学者、地震予知の手法から株価暴落を予測する方法を発見した学者などが登場する。
最初から経済や金融を専門とする従来型のエリートと異なり、波乱の人生を送ってきた人間臭いクオンツが多い。根底で共通するのは、カネへの欲求というより、市場という予測不能なものを予測可能なものしたいという知的欲求である壮大な物語の中で、クオンツたちのそうした興味深い姿が浮かび上がってくる。
※SAPIO2013年11月号