安倍政権、霞が関官僚の言論統制の動きに最も敏感でなければならないのはメディアのはずだ。しかし、国民の知る権利を守るために戦うべき大新聞・テレビの反応は鈍い。それはなぜか。ジャーナリストの長谷川幸洋氏が解説する。
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端的に言えば、記者クラブ・メディアは「発表されたものを書く」ことが仕事になってしまった。政府から関係資料が配付され、官僚のレクチャーを受けて記事を書く。記者たちは、そんな作業の繰り返ししかできなくなってしまったのではないか。
秘密保護法案は内容自体が秘密にされてきた。パブコメ募集開始の時点で公表されたのは、「法律案の概要」という簡単なペーパーだけだ。法案を所管するのは内閣官房の内閣情報調査室で、そこに記者が常駐するクラブはない。
詳しい資料がなくレクチャーも受けられないので、法案の内容が具体的にどのようなものになりそうか、何が問題となるのかを記者が自分で調べ、考えなければならない。普通の発表モノと違って記事化するのは手間がかかり面倒な作業になる。その結果、なかなか記事にならない。
問題の核心はまさにこの点にある。報じるべきものは何か、批判すべき点はどこかを自分の頭で考えるという、ジャーナリズムの根幹を支える思考と作業がクラブの記者たちから失われつつあるのだ。
それは取材現場を見ればまったく明らかである。会見で記者たちは発言内容をひたすらパソコンに打ち込んでいる。ソフトバンクの孫正義社長は「会見で大手メディアは誰も質問しない」と呆れていたそうだ。鋭い質問をするのはフリーランスのジャーナリストばかり。大メディアの記者たちはただ「キーパンチャー」となってパソコン画面を見るのに忙しい。だから、発表された内容の「何がニュースなのか」についてさえ、考える暇がない。
これは現場の記者だけが悪いのではない。メディアのシステム、組織の体質にこそ問題がある。会見での発言をメモに起こす作業を「トリテキ」と呼ぶそうだが(「テキストを取る」という意味なのだろうか)、現場の記者が「トリテキ」に没頭するのは、上司のデスクや同僚にメモを送ることが最優先の仕事になっているからだ。
デスクはメモをいち早く、大量に送ってくる記者を、仕事のできる使いやすい部下だと評価する。「速く打てるキーパンチャーが立派な記者」という、とんでもない評価基準が確立されつつある。
少なくとも私が現場の取材記者だった20年前に、このような習慣はなかった。メモはあくまで自分が記事を書くためのものであり、仲間や上司と情報共有するかどうかは状況に応じて判断していた。皮肉なことに、技術の進歩によってメモがすぐにメールで送れるようになったと思ったら、自分の頭で考える記者がどんどん現場から消えている。
秘密保護法案を巡る報道(あるいは報道がないこと)は典型例の一つに過ぎない。本来はメディアが国民に警鐘を鳴らしたり、議論を喚起したりしなければならない問題がどんどん紙面からこぼれ落ちてしまっているのだ。
※SAPIO2013年11月号