母はどんな時も無償の愛で包んでくれた。その偉大さを知ったのはいつのことだったか。慈母の記憶はいつも、懐かしい温もりとともに甦る。ここでは、野球解説者の関根潤三氏(86)が母・ハルコさんとの思い出を振り返る。
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人生で一番怖かったのがお袋だね。新潟のお寺の娘だったから、曲がったことが大嫌いなうえ、気が強いしっかり者だった。
だから反対に親父のいい加減さが目立ってね。親父は近所の人から“蝶々さん”と呼ばれていて、いつもフラフラしてどこかに飛んで行っちゃうような人だったから、お袋にしょっちゅう怒られていた。
「飯がまずい」なんていったら、お袋の右手が飛んできていたよ。ウチでは何をやるにしても、親父じゃなくてお袋の許可が必要だったんだ。
だから僕が旧制の日大三中に入った時、野球部に入りたかったんだけど、最初は無理だと思っていた。お袋は「野球は不良がするもの」と信じ切っていて、猛反対するのが目に見えていたからね。実はこれは兄貴の影響が大きかったんだ。
僕は男3人兄弟の末っ子で、兄貴2人も日大三中で野球をやっていた。兄貴たちは主将を務めるほど野球が上手かったが、筋金入りの不良でね。練習した後は夜遅くまで街をふらついてるし、タバコも女遊びも、教えてくれたのは兄貴たちだった。
まァ、彼らもお袋の前では頭が上がらなかったんだけど、お袋は兄貴で懲りていたんだろうね。でも親父が野球好きで、「オレからうまくいっといてやる」と勧めてくれて野球部に入れた。
ただ親父はなかなか約束を果たさなくてね。だからグローブも買ってもらえなくて、左利きなのに部室に転がっていた右利き用を使っていた。おかげで左利きのグローブを使い始めた時は、野球が簡単で仕方なかった(笑い)。
■関根潤三(せきね・じゅんぞう):東京都生まれ。現役時代は近鉄、巨人で活躍。大洋、ヤクルトで監督を務める。
※週刊ポスト2013年11月8・15日号