【書評】『図説 アルプスの少女ハイジ 「ハイジ」でよみとく19世紀スイス』ちばかおり、川島隆/河出書房新社/1890円
【評者】井上章一(国際日本文化研究センター教授)
一九世紀のドイツでは、アルプスの少女に光をあてた読み物が、いくつもえがかれた。ハイジだけではない。その半世紀も前に、たとえば『アルプスの少女アデライーデ』が、出版されている。ハイジは、そういった物語群のなかで、ただひとつ生きのこった。アルプスの少女たちに脚光のあたった時代を、今日につたえる遺跡めいた作品である。
スイス人の傭兵が、欧州各国で活用されてきたことは、よく知られていよう。いわゆる産業革命をへてからは、女性も出稼ぎを余儀なくされることになる。家事労働のヘルパーとなり、外国ではたらくスイス人女性が急増した。
そんな彼女たちは、しばしば故郷を想い、気持ちがおちこむようになる。当時のヨーロッパでは、この病、ホームシックを、スイス人特有の病気だとみなしていた。「スイス病」などという呼び名さえ、フランスでは浮上するにいたっている。
アルプスへかえりたい。あの山々がなつかしい。そんな想いに、フランクフルトの家庭へすみこまされたハイジは、とらわれた。ひとり、ハイジにかぎったことではない。彼女のつらさ、せつなさは、一九世紀のスイス史を象徴してもいたのである。
ハイジがそだったのは、スイスのグラウビュンデンだとされている。その生活史が、ていねいにほりおこされているところも、ありがたい。ペーターが、ヤギ飼いとして設定されたことは、何を意味するのか。口笛でヤギをあやつろうとするふるまいにひそむ、社会経済史的な現実とは。今はわかりにくくなっている物語の背景を、この図説はたくみにえがきだしている。
日本のアニメが、原作のどこをどうあらためているのかも、よくわかった。あるいは、ハリウッド映画やフランスのハイジ物語が、改作したところも。子供のころにしたしんだ読み物が、新鮮な印象をともない、大人の前へたちあらわれる。同窓会めいた感銘があじわえる一冊である。
※週刊ポスト2013年11月8・15日号