母はどんな時も無償の愛で包んでくれた。その偉大さを知ったのはいつのことだったか。慈母の記憶はいつも、懐かしい温もりとともに甦る。ここでは、歌手の美川憲一さん(67)が“2人の母”という米子さん(姉)、以し子さん(妹)との思い出を振り返る。
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私には産みの母と育ての母、2人の母がいるの。2人は実の姉妹で、両者とも女優にスカウトされるような美人だったわ。
産みの母(妹)と父の出会いは、長野から東京に向かう列車の中。結婚を前提に付き合ってほしいってナンパされたの。その後、東京のアパートで一緒に住み始めて、私を授かった。
でも父は困った顔をしたんですって。そしてある日、「ビタミン剤だ。飲めば元気な赤ちゃんが生まれるぞ」と、赤い包み紙に入った薬を持って来たの。
すぐ飲めと迫られたけど、母は「後で飲むわ」といってこっそり捨てた。女の勘が働いたのね。もし飲んでいたら、私はこの世にはいなかったわ。
母のお腹が大きくなり続けるのを見て、父は姿を消したわ。母は生まれたばかりの私を背負って、父の千葉の実家にまで押しかけたの。
そこには小さな女の子がいて、その子の母親が出て来た。父には別に妻子がいたのよ。要は騙されたのね。ワンワン泣く私を背負い、母も大泣きしながら帰ったそうよ。
そうした苦労がたたってか、母は肺結核にかかってしまって、姉に私を預けたの。幼い私は事情を知らないから、物心ついた頃には産みの母のことを“おばちゃん”と呼んでいた。
でも何か特別の愛情を感じることはあったわ。産みの母はしょっちゅう出入りしていて、運動会などの行事には来てくれたからね。
事実を知ったのは中学1年の時。近所の人に聞かされた。いるのよ、そういうお節介ババアが(笑い)。でもともに可愛がってくれていたし、反抗することはなく、それからは2人の母として接するようになった。
実はオネエになったのも、2人の母の影響が大きいの。私は小さい頃から、2人の母に派手で綺麗な服や靴を与えられて、「あんたは綺麗よ」といわれ続けた。
母と銀ブラをすると、すれ違う人が振り返ったわ。2人の母からは、「あんたが綺麗だから見られるの。いつも綺麗に着飾っていないとダメよ」といわれたの。
育ての母には歌舞伎や宝塚歌劇を、産みの母には映画や舞台に交互に連れて行ってもらった。宝塚は女性が男装し、歌舞伎は男性が女装するでしょう? 子供の頃から見ているから、私の中では男と女がゴチャゴチャになるわけよ(笑い)。
だから当然オネエにも抵抗感はなかったわ。むしろ『柳ヶ瀬ブルース』の頃、スーツを着て直立不動で歌うほうが苦痛だった。それで『おんなの朝』の頃から色を出しはじめ、『さそり座の女』ではモロ出しよ。
2人の母も「憲ちゃんに男らしさは似合わない」と絶賛してくれたわ。本当に励ましてもらった。
■美川憲一(みかわ・けんいち):1946年、長野県生まれ。1965年デビュー。代表曲に『柳ヶ瀬ブルース』、『さそり座の女』など。
※週刊ポスト2013年11月8・15日号