24日にドラフト会議が開催され、多くの新人たちがプロ野球界の門を叩くことになる。これまでも多くのドラマを生んできたドラフトにおいて、大変珍しい記録を持つ元・中日の藤沢公也について、スポーツライターの永谷脩氏が綴る。
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日本プロ野球でドラフト制度が誕生したのは1965年。それから約半世紀の間、仕組みは何度も変更されてきた。かつては球団ごとの指名の人数制限がないなど、比較的規則が緩い時代があり、そのため指名しても選手が入団する見込みはないが、とりあえず指名だけはしておこうという例もあった。
そうして指名の回数ばかりが増えていったのが、元中日の藤沢公也だ。江川卓がドラフト1位で3回指名されて2回拒否したのは有名な話だが、藤沢はそれを上回る「5回指名、4回拒否」という記録を持っている。最初は1969年だ。八幡浜高(愛媛)で3番・エースとして活躍した藤沢は、ロッテから3位指名を受けるが、拒否して社会人チーム・日鉱佐賀関に進む。
だが彼の実力を認めたプロは、その後も藤沢に“ラブコール”を送り続けた。1971年にはヤクルトから11位、1973年には近鉄から4位指名を受けるがともに拒否。1976年、日本ハムが2位指名した時は契約寸前までいったが、球団が契約金の値下げを申し出たことに「誠意がない」と反発。再び入団を拒否する。「この時点でもう指名はないと思った」と言う藤沢だったが、翌1977年には中日から、なんと1位で指名された。
さすがに藤沢は悩んだ。この時すでに26歳。職場結婚し、家庭もあった。安定した人生を続けるか、男の夢を叶えるのか。迷った末、藤沢は5度目にしてプロ入りを決める。 「最初に指名された時は、やっていける自信がなかった。でも社会人エースと言われる中で、プロでやってみたいと思うようになってきたんです。年齢的にも今しかないと思ったし……」
藤沢は動機をこう語っていた。だが、いざプロに入ってみると、現実とのギャップにぶち当たった。「右の本格派」などともて囃された社会人エースの速球は、プロの前では“遅球”だった。ドラフト同期の右腕・小松辰雄が150kmを超すスピードボールを投げる一方、藤沢の140km台前半のスピードでは太刀打ち出来るわけがない。「4度もプロを蹴った男がどんな投球をするのか」と世間が注目する中、本人は落ち込んだ。
そんな時、投手コーチだった稲尾和久が「ならばもっと遅い球を投げてみるか」とパームボールの投げ方を伝授してくれた。5本の指を縫い目にかけて、回転を少なくするパームをマスターするため、四六時中研究してキャンプで実行。それが面白いように決まり始め、1年目に13勝を上げて新人王になった。しかしその後は故障に泣かされ、結局実働6年。27勝35敗1Sの記録が残っている。
※週刊ポスト2013年11月8・15日号