母はどんな時も無償の愛で包んでくれた。その偉大さを知ったのはいつのことだったか。慈母の記憶はいつも、懐かしい温もりとともに甦る。ここでは、サッカー解説者の釜本邦茂氏(69)が母・ヨシヱさんとの思い出を振り返る。
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11年前に90歳で他界した母は、とてもハイカラな人。65歳で耳にピアス穴をあけたし、70歳から日本舞踊を習い始め、80歳を超えてもラメ入りの服を好んで着る。とにかく年寄りらしくない年寄りだった。
母は若い頃、陸上の短距離の五輪選手候補だった。身長も163cmと明治の女性としては大柄で、日本人女性初の五輪メダリストである人見絹枝さんとも競ったといっていた。ちなみに警察官を務めた後、陸軍中佐にまでなった父も、175cmと長身で、剣道3段の腕前だった。
釜本家は長男がテニス、次男は卓球、長女はバスケット、三男の私がサッカーと、皆がアスリートだったが、父母のこのDNAからすれば当然だったのかもしれない。母はとにかく勝気な人だった。ケンカで負けると、「もう1回やってこい」と家に入れてもらえなかった。
思い出すのは小学生の頃だ。私が学校でよく立たされていると聞いた母が、抗議のために学校まで怒鳴り込んできた。
しかし原因は私がわんぱく坊主で、授業中落ち着きがないため。担任の女教師から「授業態度を見に来ればわかります」といわれると、悔しさのあまり半年間、毎日学校に来て私を監視していた。恥ずかしくて仕方がなかった。
幼少期は叱られた記憶しかない。近所でイタズラしているのが見つかると母に追いかけられるが、相手は元五輪候補の短距離選手。すぐに捕まった。そして私の首根っこを掴んでは、近所に頭を下げて回っていた。そんな母は、私をサッカーの道に進ませてくれた恩人でもある。
私の幼少時は野球人気全盛だったが、京都では「京都紫光クラブ」を形成していた京都師範学校(現・京都教育大)のOBたちが小学校でもサッカーを教えるなど、サッカーが盛んだった。
私は学校対抗で1試合に4点取ったこともあり、先生から「サッカーをやれば五輪もあるし、世界中に行ける。野球は日本と米国だけだ」といわれ、中学ではサッカー部に入部した。
サッカーのため、高校も強豪の山城に決めた。山城は学区制の関係で商業課程しか進めなかったので、普通科に行かせたい父は反対したが、「本人がやりたいといっているんだから」と母が説得してくれた。
■釜本邦茂(かまもと・くにしげ):京都府生まれ。日本代表としてメキシコ五輪に出場し、銅メダルを獲得。
※週刊ポスト2013年11月8・15日号