昨年の中国共産党の第18回党大会における権力闘争激化の火種ともなり、有力幹部だった薄熙来・元重慶市党委書記が失脚した原因となった昨年2月の重慶事件について、当時、米国務長官として事件に直接対応したヒラリー・クリントン氏が事件から約1年半後、ようやく当時の緊迫した状況を明らかにした。
ヒラリー氏は10月、英国王立国際問題研究所(チャタムハウス)で行なわれた「卓越した国際的外交官」授賞式の講演でこの事件を振り返った。
重慶事件は昨年2月6日、薄氏の腹心だった王立軍・副市長が四川省成都市の米国総領事館に駆け込み、政治亡命を求めたもの。米側は亡命を認めなかったが、総領事館が装甲車両などに取り囲まれ、一触即発の状態。そのようななか、総領事がロック駐中国米大使に連絡を取り、ロック大使はヒラリー氏に電話。ホワイトハウスが中国指導部に直接連絡をとって、総領事館の館員らの保護を求めた。
その結果、胡錦濤・国家主席が直接、国家安全省次官らを成都に派遣。王立軍副市長の身柄を確保するとともに、中国側の武装を解かせたという。
総領事館を包囲していたのは武装警察で、装甲車両などを配備した重装備だった。これは、妻による英国人ビジネスマン殺害の事実を知られたくなかった薄氏が派遣したものと伝えられているものの、ヒラリー氏は「武装警察は薄熙来の手下ではなかった。それは、政法委員会が派遣したものだ」と明らかにした。
政法委員会とは警察や武警のほか、軍の一部も支配下に置き、司法関係機関を管轄する党機関で、当時は周永康・党政治局常務委員が最高責任者だった。周氏は薄氏と極めて近く、薄氏が逮捕された汚職事件にもかかわっていたとされる人物。
最近では周氏が四川省トップ時代や中国石油最大手の中国石油天然ガス集団(CNPC)トップ時代の側近らが次々と逮捕されており、腐敗取り締まりの次の標的は周氏本人であると伝えられる。
そのような周氏の悪行と薄氏との密接な関係が、図らずもヒラリー氏の口から暴露されたことで、周氏の“悪運”はもはや尽きたとみてよいだろう。
ヒラリー氏はこの件について「極めて不愉快な事件だった」と憤りをあらわにした。