二〇二〇年東京五輪に向けて、危機管理への意識が高まっている。それは、無関心だった原発テロへの懸念と共に切実な問題として浮かび上がっている。だが、かつて東京は世界で最も爆破テロの危機に晒され、それと敢然と闘った都市でもあった。その知られざる闘いの内幕を『狼の牙を折れ 史上最大の爆破テロに挑んだ警視庁公安部』(小学館刊)で門田隆将氏(ノンフィクション作家)が追った。
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(【狼の牙を折れ】三菱重工爆破事件の内幕実名証言【5/6】のつづき)
翌五月十九日、月曜日早朝。
明け方から降り始めた雨が、午前七時を過ぎた頃から地面に叩きつけるような土砂降りとなっていた。
古川原一彦巡査部長と坂井城巡査(二六)ら極左暴力取締本部の廣瀬喜征警部補(三一)が率いる廣瀬班の面々は、微動だにせず、アパートや民家が立ち並ぶ足立区梅島三丁目の住宅街の一角で、もう一時間以上、張り込みを続けていた。
彼らは、佐々木規夫が住むアパートの玄関に視線を集中させていた。佐々木は、二か月前の三月下旬、北区の美島荘を引き払って、ここ足立区梅島に引っ越していた。前夜、古川原巡査部長は佐々木がアパートから「徳の湯」という銭湯に向かった時、監視のための拠点となっていた隠れ家を出て尾行し、そのまま一緒に風呂に入っている。
「よく身体を洗っておけよ。明日からもう、娑婆の風呂には入れないぞ」
古川原はひげにカミソリをあてながら、鏡に映った佐々木の背中にそう心の中で語りかけた。ひとしきり身体を洗い終わった佐々木は、湯船に向かった。そのあとを古川原が追う。
古川原はその時、広い湯船が偶然、佐々木と古川原の「二人だけ」になったことを記憶している。史上最大の爆破テロ事件の容疑者と、それを追う公安捜査官の二人が、この夜、梅島の銭湯で、同じ湯船に「浸かっていた」のである。
時間はついに八時を過ぎ、雨が小降りになってきた。いつもなら、佐々木が出てくる時間だ。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ……時計の秒針が頭の中で時を刻むような錯覚に捜査官たちは、とらわれていた。まだか……。さっきまで土砂降りだった雨は勢いを失い、今度は、霧雨のようなものになっていた。その時だった。
(来た!)(佐々木だ)
坂井の目にも、古川原の目にも、そして張り込むほかの捜査官の目にも、その姿が飛び込んできた。
黒縁のメガネをかけ、下は黒っぽいズボン、上は白っぽいジャケット風のものを着た佐々木規夫がアパートの玄関に姿を見せた。八時三十分、ぎりぎりである。おもむろに傘を差した佐々木は、アパートの玄関を出ると右に曲がった。
(よし!)
後方に位置していた古川原が足音をしのばせ、静かに黒豹のごとく佐々木を追う。だが、佐々木は、右に曲がった後、すぐに旧日光街道の方角に向かう幅一メートルほどの小さな路地を左に入った。
(ん?)
古川原は、いつもと通る道が違う、と思いながら、あとを追った。そこは、前方の坂井の位置から一瞬見えなくなる“死角”だ。坂井は、佐々木が「消えた」のかと思った。時間にすれば、おそらく十五秒とか二十秒ぐらいだろう。
(しまった! あの路地だ)
いつもと違うあの狭い路地に佐々木が入ったことに坂井は気づいた。足が地面を蹴った。佐々木があの小さな路地を行ったとしても、突き当たった道のところで追いつける。逮捕要員が被疑者を見失うことなど、あってはならない。坂井は必死だった。全速力で走った。道に出た坂井は、佐々木が来るはずの左側を見た。だが、いない。
(どうしたんだ)
不安が心の底からせり上がってきた。だが、そう思った次の瞬間、佐々木の姿が目に飛び込んできた。
どうやら一本手前の路地を走った坂井は、ゆっくり歩く佐々木を追い越し、少しだけ早く道に出たのだった。佐々木はこっちに向かっている。
後方にいる古川原の姿も見えた。拠点に泊まり込み、一緒に佐々木を監視してきた仲間である。その瞬間、うしろから古川原が大音声を上げた。
「佐々木規夫、逮捕する!」
声と共に古川原が飛びかかった。坂井も駆け寄る。潜んでいた捜査官たちが一斉に走り寄ってきた。
羽交い絞めにされる佐々木。だが、抵抗はない。逮捕要員五、六人が隙なく佐々木のまわりを囲んでいる。うしろから警察車両が近づく。
グリーン色のカローラだ。屈強な公安捜査官に囲まれた佐々木は、カローラの後部座席に押し込まれた。佐々木は言葉を発しない。左側から佐々木を押し込んだ古川原が左を、坂井が右側から乗り込み、佐々木を左右から挟み込んだ。
「佐々木規夫、爆発物取締法違反で逮捕する。被疑事実……」
古川原が逮捕状を読み上げた。佐々木は目をつむったままだ。いったい何が頭に去来しているのか。佐々木は一切、言葉を発しなかった。
令状を執行させた次は、「身体捜検」だ。上着のポケットからズボンのポケットまで、すべて中身をあらためるのである。ズボンのポケットから小銭入れが出た。その中に薬のカプセルが見えた。
「これ、なんだ?」
そう言ってカプセルを坂井がつまみ上げた瞬間だった。それまで無反応だった佐々木が、いきなり、そのカプセルを鷲づかみにしようとした。
「なんだ!」
佐々木の手から古川原が咄嗟にカプセルを叩き落とした。
(青酸カリだ……)
古川原は直感した。それまでの視線とはまるで違うぎらぎらとした目で、佐々木は叩き落とされたカプセルをじっと見つめていた。(了。『狼の牙を折れ』は、十月二十四日、小学館より刊行)
◆門田隆将(かどた・りゅうしょう)/1958(昭和33)年、高知県生まれ。『この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(角川文庫)で第19回山本七平賞受賞。近著に『太平洋戦争 最後の証言』(第一部~第三部・小学館)、『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP)がある。
※週刊ポスト2013年11月8・15日号