巨人と楽天が日本シリーズで戦っていた10月28日に、川上哲治氏が93歳で亡くなった。その川上氏を、そして巨人軍を支え続けたマネージャー、山崎弘美氏についてスポーツライターの永谷脩氏が綴る。
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日本シリーズ第4戦の試合前、巨人・楽天の両選手がベンチ前に整列。10月28日に老衰のため93歳で亡くなった、川上哲治の死を悼んで黙が行なわれた。監督として川上を師と慕い、同じ背番号77をつけ続けた星野仙一・楽天監督の目には光るものがあったように見え、原辰徳・巨人監督は口を真一文字に結んで、川上V9以来となる日本一連覇を誓っていた。
30年くらい前、私が森祇晶のゴーストライターをやっていた縁で紹介してもらい、川上さんにお会いしたことがある。
「組織には陰と陽がある。新聞記者は父親的に選手に接することが多いが、編集者は母親にならないと駄目ですな」
取材が終わった後の雑談で、そんな話をしてくれた。その時に立ち会ってくれていたのが、川上巨人をまさに“陰”で支え続けた、マネージャー・山崎弘美だった。
1952年に辰野高(長野)から巨人に入団、1960年に現役引退。公式戦出場はわずか2試合だったが、裏方として本領を発揮する。一時、先乗りスコアラーをやったが、そのマメさと律儀さを買われて、川上監督就任の1961年以来、ずっと一軍チーフマネージャーを務めていた。
川上がユニフォームを脱いだ後は、球団営業やスカウトに転身していた時期もあったが、藤田元司が監督になると再びマネージャーを引き受ける。「マネージャーが天職」というような人だった。
山崎は今年5月20日に呼吸不全で他界。スカウト時代に山崎が担当したのが縁で、原監督が弔辞を読んだ。ただその告別式の席上に川上の姿はなかった。自宅の居間で転倒し、骨折していたために参列できなかったのだ。これを非常に悔やんでいたという話を聞いた。「弘美は全部背負って先に逝った」とポツリと漏らしたという。裏方冥利に尽きる言葉である。
巨人には集合時間の30分前に全員が揃うという「巨人時間」という約束事があった。これはいつも時間より早く来る川上監督を待たせるわけにはいかないと、山崎が決めたルールだった。
山崎が亡くなったのは、川上の訃報の5か月前だった。「御大を待たせるわけにはいかないので、先に逝ってお待ちしています」と言っているようにも感じた。
強かった巨人は、裏で支える人たちも“最強”だった。「表(王・長嶋)と裏で支える人たちがいたからV9ができた」という川上の言葉を思い出す。
※週刊ポスト2013年11月22日号