球史に燦然と輝く不滅の大記録「V9」。巨人軍の黄金時代の中心には、常に監督・川上哲治と4番・長嶋茂雄の2人がいた。しかしオールドファンならば知っていよう、両者の間には複雑な感情が交錯していたことを──。確執を示すエピソードは枚挙にいとまがない。
●川上がスポーツ紙の取材で宮崎キャンプを訪問しても、監督時代の長嶋は二軍に出かけたりして“居留守”を使った。
●川上が巨人のOB会会長になった後は、長嶋はOB会を欠席し続けた。1990年に「今年出席しないと除籍」という勧告を受けて、しぶしぶ出席した。
●プロ野球の発展に大きく貢献した人物に贈られる正力松太郎賞。選考委員長をしばらく川上が務めていた影響か、王は計4回受賞しているのに長嶋は1回だけ。しかも歴史上、大半の受賞者が「日本一監督」であるにもかかわらず、2000年のON対決で長嶋監督が日本一になった時は、松井秀喜の受賞となった。
「川上さんは親しい記者に、“巨大戦力をもって、オーソドックスでない長嶋采配には受賞の権利がない”と語っていたようです」(スポーツ紙デスク)
●名球会の入会条件を昭和生まれ限定としたのは、金田正一ではなく長嶋。川上と同じ会に入りたくなかったためといわれる。
●長嶋は最後まで絶対に川上の名前を呼ばず、「野沢」とか「野沢のオヤジ」と呼んでいた(野沢とは川上が自宅を構えていた場所)。
悲しいばかりの2人の相克──。しかし、2人をよく知るOBの見方は少し違っている。長嶋新監督の時にヘッドコーチに就任した、関根潤三氏の言葉だ。
「川上さんは本当におっかない人だったけど、野球には特に厳しかった。だから野球に関しては、誰とも仲良くなかったんだよ(笑い)。ミスターとの確執? いやいや、ミスターもわかっていたと思うよ。これは川上さんが自分に教育してくれてるんだってね。
ミスターは陰ではよく“オヤジがうるさくって”とボヤいていたけど、川上さんの前に出れば、直立不動だった。僕はオヤジという呼び方は、反発としてではなく、親しみを込めてだったと思っている。勝つためには、なんだかんだお互いを認め合う関係だったと思うけどな」
勝利のために非情に徹した川上と、勝つことにもロマンを求めた長嶋。その方法論の違いに加えて、2人の強烈すぎる個性が、お互いを拒絶したのかもしれない。両者に共通するのは、常に巨人を支え、勝利を求められたこと。そして、球界を背負って立つべき存在であったことだった。
1990年代に入り、球界は最大の危機を迎える。「Jリーグ」の発足だ。野球人気復活のため、長嶋は再びユニフォームを着る。その時の川上の態度はこれまでとは少し違っていたという。
「“彼も色んなことを経験したはず”と、理解を示す発言していた。それに、“もう強いだけで組織を維持できる時代ではなくなった”ともいっていた。これからは長嶋の時代だという意味だったのかもしれません」(ベテラン記者)
川上は球界の未来を長嶋に託し、逝った。訃報に触れた長嶋は、「私にとって川上さんは、とてつもなく大きな存在でした」とコメントしている。川上が世を去った3日後の10月31日、園遊会に招かれた長嶋は、天皇に対して川上の偉大さを丁寧に語った。その時の長嶋の表情は、2人の間にはもはやわだかまりはないとでもいうような、明るい笑顔だった。
(文中敬称略)
※週刊ポスト2013年11月22日号