1989年6月の天安門事件のきっかけとなった学生らの民主化要求運動で、北京・天安門広場を占拠し続け民主化運動指導者、柴玲さんが米国マサチューセッツ州で起こした裁判で、同州の最高裁判所は10月中旬、柴玲さんら原告の主張を退け、相手側の弁護士費用などの裁判にかかった費用として約51万ドル(約5100万円)を支払うよう命じる判決を下した。
この裁判とは、事件当時の記録映画のなかで、柴玲さんが「私は流血を望んでいた」などと告白した部分について、柴玲さん側が映画から削除するよう求めるなど、執拗な嫌がらせをしたとして名誉毀損などで訴えられていたものだ。一時は「民主化運動のヒロイン」と讃えられたこともある柴玲さんだが、この判決で当時の民主化運動そのものに汚点を残した格好だ。
柴玲さんは事件当時、「天安門広場指揮部総指揮」との肩書きで、民主化運動の方針に強い影響力を持っていた。柴玲さんら民主化指導者が交渉していた中国政府側の要求を拒否したことによって、政府側は軍を導入して、流血の事態に至ったのは、柴玲さんらの頑迷さともいえる政府批判の硬直した態度がきっかけとなったとの見方もある。
これを裏付けるように、柴玲さんは事件前、天安門広場で受けたインタビューで、「実際、私たちが期待しているのは、それは流血だ」と発言したほか、「私は他の人たちと違って、ブラックリストに載せられている。私は生き延びたいのだ」とも述べ、流血などの事態が起これば、自身はその混乱に乗じて、中国から逃げて生き延びたいとの意思表示をしていた。
実際、柴玲さんは指名手配リストに載せられながらも、10か月ほど中国大陸内を逃げ回り、翌1990年4月、香港に逃れている。その際、自身が無事であることをビデオで撮影し、香港のテレビ局を通じて、全世界に伝わった。その後、フランスのパリから、米国に渡り、マサチューセッツ州にあるハーバード大学のビジネススクールに入学し修士課程を修了。米国人の夫とともに同州でIT関連会社を創設し、現在、最高経営責任者を務めている。
柴玲さんの企業経営が順調にいっていた1995年、米映画制作会社が制作した「天安門」に柴玲さんの「流血」発言が収録されたことで、柴玲さんの「民主化指導者のヒロイン」とのイメージが崩れることになった。
これに対し、柴玲さんは制作会社側と話し合い、同社のホームページに柴玲さんのコラムなどを掲載することになったが、その内容が同社を激しく貶めるものだったことから、2006年に訴訟に発展し、柴玲さん側が敗訴したのだ。
ネット上では「7年もの間、裁判闘争を戦い抜いたことはさすがに『民主化の闘士』だけあるが、もはや柴玲さんの名声は汚れ、当時の民主化運動そのものにも大きな疑問符がつく結果となった」との書き込みも見られる。