中国の習近平・国家主席が29歳から32歳までの3年間、初めて地方の末端幹部を務めた河北省正定県(日本の市に相当)で、省トップの直属の上司とそりが合わず、人間関係で悩んでいたことが分かった。香港誌「名声」が伝えた。結局、習氏は中国共産党中央や党政治局員を務めていた父、習仲勲氏の意向で、県幹部を3年間で辞め、福建省廈門(アモイ)市副市長に転勤となる。
当時の河北省党委書記だった高揚氏は根っからの潔癖症で正義感が強く、不正が大嫌いという硬骨漢で、当時では珍しいくらいの典型的な正統派の共産党幹部。
習氏が初めての地方勤務ということもあって、父親の習仲勲氏が心配して、上司の高揚氏に「息子をよろしく頼みます」と電話をかけたことがあった。当時の習仲勲氏は党政治局員で党書記処書記という党最高幹部の一人だったが、高揚氏は河北省の全体会議の場で、「習仲勲政治局員から息子の習近平同志をよろしくとの電話があった」と暴露してしまった。さらに、高氏は「私は政治局員から直々に頼まれようと、けっして不正はしない」とまで発言し、さも習仲勲氏から不正を頼まれたとの印象を与えたという。
高揚氏が、このような発言を行なったのには伏線がある。それは、党中央も習氏が幹部の息子ということを考慮して、高揚氏に「習近平を早く省の党委員会の書記に推薦せよ」と再三要請していたのだ。党幹部の人事権を握る党組織部長は習仲勲氏と親しい胡耀邦氏(のちの党総書記)で、胡氏も習近平氏のことを気にかけていたのだ。
この裏には、党中央は文化大革命の政治的影響で人材不足になっていることから、地方幹部として若手を登用して、人材の層を広げようとする意図があった。
ところが、これに対して、潔癖症の高揚氏は反発し、「私はまだ30歳になったかならないかという経験や力量が不足している若者を省の幹部に登用する気はさらさらない」と開き直り、習近平氏を目の敵にするようになった。
とばっちりを受けたのは当の本人の習近平氏。自身の出世を父親や党幹部に頼んだわけではないのに、直属の上司から嫌われてしまったからだ。結局、習近平氏は党中央の配慮から、正定県よりも格上の福建省アモイ市の副市長に昇格することになり、河北省には3年間勤務しただけで転勤になった。
しかし、習近平氏が高揚氏に転勤のあいさつをすると、「君は党中央が気にかけている幹部だ。来るのも自由、去るのも自由だ。私に挨拶に来る必要などない」とけんもほろろに追い返されてしまった。
その後、高揚氏はある党幹部の息子が省内の農産品を直接取引しようと持ちかけた案件を拒否したことで、河北省トップから党中央顧問委員会委員に左遷されてしまったという。
一方、習近平氏が赴任した福建省のトップは習仲勲氏の腹心とも言える項南氏で、習近平氏を庇護し、何くれとなく面倒を見て、その後の習氏の幹部として成長の基礎を築いたといわれる。習近平氏は項南氏の引退後も、出張などで北京に出張するたびに、項南氏の自宅を訪問し、仕事の悩みを相談するなど頼りにしていたという。習近平氏は1997年11月、海外出張から戻り北京に一泊した際、項南氏と会っているが、その夜、項南氏は心臓発作で死亡。習近平氏が生涯で最後の客だった。