今年3月27日に仮釈放され、11月10日0時に刑期を満了した堀江貴文さん(41才)。曰く、「久しぶりに経験するゼロの自分は、意外なほどにすがすがしい」。彼が自らの“ダークイメージ”を払拭するために、ありのままに語ったゼロの自分、出所後、親との関係を改めて見直した子供としての本音など、赤裸々に語った――。
■取材・構成:柳川悠二
堀江さんの新刊『ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく』(ダイヤモンド社刊)は、発売早々重版が決まり、現在17万部を超えるベストセラーに。改めて、今の心境や両親のことについて話を聞いた。
1972年、福岡県八女市に堀江さんは生まれた。現在70才になる父親は地元の高校を卒業し、地元の企業に就職。早期退職を促されるまで、ずっと同じ会社に勤めていた。また、63才になる母親は、堀江さんが生まれたあとも、地元の企業を転々としながら働き続けたという。堀江さんに幼少期の両親との思い出はほとんどなく、記憶にあるのは祖父と過ごした時間ばかりだ。
「なにせ田舎ですから、両親が共働きという家庭は、当時はかなり珍しかったですね。授業参観に両親が来たことは一度もありませんでした。両親にとっては、仕事を休んでまで参加するイベントではなかったのでしょう」(堀江さん・以下「」内同)
小学校から帰宅すると、家には誰もおらず、堀江さんは「家に唯一あった本だった」という百科事典を読んで、ずっと両親の帰りを待った。
自宅にいる時の父親は無口だった。ところが酒に酔うと、「せからしか(うるさい)!」が口癖になった。不器用な人で、堀江さんが反論すると、理屈ではかなわないと察してか、すぐに手が飛んできた。
「父は団塊世代の普通の考え方を持つ、普通の人。黙っていれば害はないんです。やっかいなのは母でした」
堀江さんは小学1年生の時、母親に警察の道場に連れて行かれ、以後6年間、いやいやながらも柔道を強制された。母は柔道によって頑健な男に育てようとしたのもしれないが、堀江さんにとっては苦痛でしかなかった。また、中学生の時に「パソコンが欲しい」と母にねだると、お年玉すら与えない母が20万円を手渡し、「新聞配達をして返しなさい」と伝えたという。ビジネス感覚に長けた母は、息子に勉強よりも大事な働くことの価値を伝えようとしていたのだ。
「今にして思えば、23才でぼくを産んだ母は、自分ができなかったビジネスでの成功をぼくに託したかったのかもしれません。ずっと働いていたといっても、現在のように女性が社会に進出する時代ではありませんでしたから。でも、当時のぼくはそんなふうには思えなかった。芽生えたのは両親への反発心だけでした。好き勝手するためには、自立するしかなかったんです」
成績優秀だった堀江さんだが、子供の頃から両親に褒められたことは一度もなかった。
「ぼくは褒めてほしかったし、かまってもらいたかった。褒められた経験がないから、ぼく自身も褒められることがすごく苦手で、人を褒めることもうまくできない大人になりました。会社を経営し、その後、逮捕されたりするなかで、人を褒めて伸ばすことの重要性を学んでいったんですから」
還暦を過ぎた母は相変わらず、息子とのコミュニケーションが苦手のようだ。
「母が還暦を迎えた時、ぼくに急に電話してきて『車を買い替えようと思っているの』とか言うんです。生返事のまま聞いていたら、『還暦だから赤がいい』って。なんの話かわからず聞き返したら『もういいっ!』って怒って電話を切る。素直に『還暦祝いに車が欲しい』と言えばいいのに、それが言えない人なんです」
一方、堀江さんはかつての反発心は消えつつある。
「母とは、逮捕後は、函館まで一緒にGLAYのコンサートを見に行って、そのまま打ち上げにも出たりとか、たまに会っていますよ。10月末のぼくの誕生日パーティーにも、誰が呼んだのかサプライズゲストでやって来て、母からの手紙なんかをもらったりして。どんなことが書いてあったかなんて、恥ずかしくて言えないです(笑い)」
泣く人もいたというから、さぞかし感動的な手紙だったに違いない。恩讐を超えて、堀江さんはようやく親子の絆を取り戻したのだろうか。
「いやいや、親にはギブギブギブ! 見返りを期待しちゃだめです。社員や子供を育てる時も同じだと思いますが、こちらが思うようには変わりませんよ」
そう照れ隠しのように語る堀江さんだが、そこには母への限りない慈愛が込められているように感じられた。
※女性セブン2013年11月28日号