プロ野球選手のコンディショニングを担当するトレーナーが球団や選手につききりでいるのは今では当たり前だが、松元隆司氏が1980年に阪急ブレーブスのトレーナーになった当時は、まだ珍しいものだった。その松元が熱心だったボランティア活動とプロ野球選手とのかかわりについて、スポーツライターの永谷脩氏が綴る。
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日本シリーズ第7戦、前日に160球を投げて完投した田中将大は、この日も9回のマウンドに立ち、15球を投げて楽天を日本一の座に導いた。連投の疲れは明らかで、真っ直ぐの球威は本来のものではなく、落ちる球を生かしての力投だったが、それを見ながら、「あの人ならばどのような形でマウンドに送り出したかな」とふと考えた。阪急・オリックスで球団専属トレーナーを務めていた松元隆司である。
現在のように投手の分業制が確立されておらず、誰だろうといつリリーフ登板があるかわからない時代。いつでも連投できるように準備しておく必要があった。
松元は時には鍼や灸を使うこともあり、その時も患部に直接打つのではなく、周囲からゆっくりほぐしていった。それで時間が掛かり、午前様になることもしばしばだったが、翌日にはちゃんと投げられるまでに仕上げていた。そのためエース・山田久志を中心とした投手陣からの信頼は厚く、
「ヤマちゃん(山田)が“20勝できた御礼”といって、故郷のあきたこまちを贈ってくれた」
と喜んでいたのを覚えている。ナインからは「マッちゃん」と呼ばれて親しまれていた。
松元の入団当初、球界でのトレーナーの地位はあまり高くなかった。そのため松元は、トレーナーの地位向上のため、12球団のトレーナー連絡会を作って初代会長となり、研究や最新技術の講習会を開くなど、積極的に活動した。その甲斐あって、現在ではトレーナーは「先生」と呼ばれるまでになっている。
その一方で、ボランティア活動にも熱心だった。肢体不自由児を我が子に持つ関係で、オリックス時代には、オフに田口壮、イチロー、福良淳一(現ヘッドコーチ)を連れて、身体障害児の野球教室に参加している。
その時の話を聞いたことがある。車椅子の少年が投げたボールを田口が手加減して打つと、「プロってこんなもんか」というヤジが飛んだ。
「それで田口が本気を出して打った打球を見て、今までヤジっていた子が“プロってすごいんだ”と目を丸くしたんです。手加減されることに慣れている子たちだったから、本気でぶつかってくれたことで心ががったようでした。精魂込めて真剣にぶつかっていけば、必ず心が通じるということを、改めて子供たちに教わりました」
嶋基宏らと被災地を訪問して、その惨状に言葉をなくしたという田中将大。「それでも僕らに頑張れと言ってくれた子供たちがいたのが嬉しかった」と田中は言っていた。だからこそ東北のファンの前での連投も辞さなかったのかもしれない。松元の言った言葉が、田中の力投とダブって見えてきた。
※週刊ポスト2013年11月29日号