これはセ・リーグ3連覇への吉兆か。来季から村田修一(32)が巨人の選手会長に就任する。生え抜きではない移籍選手が選手会長となるのは、巨人の歴史上初めての事だ。
1971年の長嶋茂雄を皮切りに、巨人ではこれまで17人が選手会長を務めて来た。投手は堀内恒夫、桑田真澄、内海哲也の3人だけ。村田は2009年の阿部慎之助以来となる野手での選手会長就任となる。
これまで14人の野手が選手会長となっているが、就任初年度のリーグ優勝確率は、なんと7割1分4厘の高確率(投手を含めても、6割4分7厘)。特に1980年代、1990年代は、野手の選手会長が就任した初年度はすべて優勝。1980年代は優勝4回中3回、1990年代は優勝3回中3回と、選手会長が交代した年にことごとくペナントを制している。スポーツライターが解説する。
「選手会長は、フロントに待遇改善を求めたり、NPB(日本野球機構)との折衝を重ねたりと、なにかと負担のかかる業務。
昨年WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)開催問題で揺れたときの新井貴浩(阪神)や、球界再編問題のころの古田敦也(当時ヤクルト)、古くは労働組合結成時の中畑清(当時巨人)を思い出せばわかるように、歴代の日本プロ野球選手会会長は、野球以外の仕事が増える。
それは12球団の代表にならなくても、同じこと。村田はその壁を乗り越えられるか。ただ、巨人の場合は周りがきっちりとサポートする体制も整えられているからこそ、交代年の優勝につながっているのでしょう」
巨人野手の場合、選手会長に就任すると、成績が上昇することも多い。1971年の長嶋は前年の不振を払拭し、首位打者を獲得。1973年の王貞治は3割5分5厘と自己最高打率をマークし、51本塁打、114打点と文句ない成績で初の三冠王に輝いた。
1983年の中畑清は打率を3割に乗せ、日本シリーズでも優秀選手賞に輝いた。1987年の原辰徳は打率3割7厘(自己最高)、34本塁打、95打点(ともに自己2位)という好成績で、王監督初の胴上げに貢献。2009年の阿部慎之助は2年ぶりに本塁打を30本台に乗せ、長打率はリーグ1位。日本シリーズではMVPを獲得した。
松井秀喜は2001年の就任初年度に優勝できなかったものの、生涯唯一の首位打者となっている。高橋由伸も優勝は逃したが、自己最高打率となる3割2分3厘をマーク。選手生活晩年に入っていた高田繁(1979年就任)、吉田孝司(1981年就任)、吉村禎章(1994年就任)を除けば、軒並みみずからの打棒にも良い影響を与えているようだ。
唯一の例外があるとすれば、二岡智宏だ。2008年に選手会長に就任するも、開幕早々ケガで戦線離脱。7月には山本モナ(現・中西モナ)と五反田のラブホテルで密会していたことが週刊誌上に掲載された。その後、一軍復帰を果たすも、坂本勇人に完全にショートのポジションを奪われ、復帰以降の先発出場はすべてサードで22試合のみ。オフには日本ハムへトレードされた。
「それでも、二岡が選手会長に就任した年に巨人は優勝しています。単なるジンクスかもしれませんが、それだけ来季も巨人優勝の可能性が高い……ということなんでしょうか」(同前)
巨人にとって村田選手会長就任は、やはり吉兆か。