プロ野球はFA移籍やトライアウトの話題が中心の季節になった。プロ野球でかつて8球団を渡り歩いた男がいた。一体どんな人物なのか、スポーツライターの永谷脩氏が綴る。
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師走の足音が聞こえる時期になると、戦力外通告を受けた選手たちが、再就職を目指してトライアウトに臨む。今年の第1回テストには65名が参加。その中には、日米の8球団で活躍した45歳の木田優夫(BCリーグ・石川)などが含まれていた。
かつて球界には、日本だけで合計8球団を渡り歩いた男がいる(プロ野球記録)。それもトレードではなくすべて自由契約になった末、テストに合格して、行く球団、球団で年俸が上がっていったという凄腕である。
名前を後藤修という。同じ「オサム」ということで可愛がってもらった。少年誌の連載で原稿をもらいに毎週通ったが、文字は達筆で、応接間には常にクラシック音楽が流れていた。
静岡の進学校・磐田南高では、東大にも受かると言われたほどの学力の持ち主。加えて遠投120メートルという強肩と、全身がバネのような身体能力があり、1952年に松竹のテストを受けて一発合格した。
その後1953年には大洋、1955年東映、1956年大映、1957年巨人、1959年近鉄、1961年南海、1963年西鉄と、最大2年を限度に渡り歩いたことで、「ジプシー後藤」の名前がついた。本人曰く9球団目(阪急)も声がかかったが、「野球よりものめり込めるのは個人競技」と、突然ゴルフのティーチングプロに転向。ジャンボ尾崎や中嶋常幸を教えていた。
一度だけプロのテストに受かる方法を尋ねたことがある。答えは、「2月1日に全力を出せるようにトレーニングする」というものだった。キャンプの初日に、テスト入団生がいきなり150キロ近い球を投げたらば、大概採用してくれるという(しかし4月の開幕の時には、もう疲れてしまうことが多かったとも言っていた)。
加えて、キャンプ中にオーナーが訪問する日を周囲から聞いておき、それに合わせて調整していたという。「オーナーが“面白そうだね”と言えば大体合格だから」と笑っていた。若造の編集者を相手に、どこまで本気で言ったかはわからないが、さもありなんと思ったものだ。人が休む正月に鉄下駄を履いて、寒風の中、大井川の河川敷を走りながら、下半身を鍛えたからできた芸当だった
※週刊ポスト2013年12月6日号