20年以上前に遡る1991年、韓国と日本が歴史認識をめぐって法廷で争うという、現在を予見するような異色長篇小説が刊行された。本誌で「逆説の日本史」を連載中の作家・井沢元彦氏が書いた『恨の法廷』である。井沢氏はこの作品で、韓国の反日の根底には、「恨」の感情があると喝破した。隣国が戦後最悪ともいうべき「反日ムード」に冒された今、井沢氏が改めて「恨」について解説する。
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今年3月1日、日本統治下の1919年に起こった「三・一独立運動」を記念する式典で、韓国の朴槿恵大統領は「(日本と韓国の)加害者と被害者の立場は、千年の歴史が流れても変わらない」と述べた。日本に対する恨みは永遠に続くと公言したわけである。尋常ならざる怨念に背筋が寒くなった日本人は多いであろう。
だが、この感情は歴史的に韓国人、いや朝鮮民族全体に共通するもので、「恨千年」は決して大袈裟ではない。たとえば、チョー・ヨンピルが歌ったことでも知られる「恨五百年」という韓国の代表的な民謡がある。
高麗の武将・李成桂が高麗王朝を倒して李氏朝鮮(1392~1910年)を打ち立てたとき、高麗の遺臣が李成桂を恨んで歌った歌が元になっていると言われ、そこでは「恨五百年」という言葉が何度も繰り返される。
私は20年以上前の1991年に『恨の法廷』という作品を刊行し、韓国人、朝鮮民族のメンタリティを解剖したが、今はそのとき以上に「恨」が噴出している。「恨」とは「恨み辛みや不満を生きるエネルギーに転換した状態」のことで、朝鮮民族特有の精神構造である。
確かに、ネガティブな感情が生きるエネルギーになることはあるが、そういう人間、民族や国家は、必要以上に攻撃的、非理性的になる。民族が団結するためにも、必ず憎悪の対象が必要になるからだ。
逆にわれわれ日本人は、太古の昔から「恨み」という感情をケガレの一種、つまり排すべきものだと捉えてきた。いつまでも恨みを抱き続けるのは悪いことで、いずれ水に流すべきものと考えられてきたのだ。だからこそ、日本人は和や協調性や思いやりを大切にするのである。
※週刊ポスト2013年12月20・27日号