こうした清二の感性の前に、清二の言葉の前に社員たちは戸惑い、苦悩した。
実際、バブル経済時代の不動産投資が不良債権化し、2000年グループ企業「西洋環境開発」が特別清算を申請。個人資産およそ100億円を出資するものの、セゾングループは崩壊するなど清二の事業は蹉跌した。
そういえば昨年から入退院を繰り返した病室には豪華な花束が何度も届けられた。送り主は“ナベツネ”こと、読売新聞グループ本社会長である渡邉恒雄だ。
「ツネが死ぬなっていうんだよ」
清二は嬉しそうにこう話していた。清二、渡邉恒雄、そして氏家齊一郎(元日本テレビ会長。2011年3月逝去)。3人は東大在学中からの関係である。渡邉が氏家を共産党に誘い、そして氏家が清二を又勧誘した。3人の交わりはその濃淡はあったものの、家族にも似た血の契りが流れている。
清二が“ツネ”と渡邉のことを口にする時、その目は遠い昔を愛おしむように揺れ動く。清二とのインタビューは、入院中は別として、弟・猶二がその設計にも携わり、後には社長を務めた東京「ホテル西洋銀座」の一室であったり、清二の個人事務所で行われた。
腰が曲り、時として杖をつきながら現れる清二は、老人そのものだった。しかし、席につき、コーヒーを一口飲み、相対するとその眼光は鋭く、語り口は時として厳しいものだった。
筆者は入院する直前に清二から自らの詩集を手渡された。題名は『死について』(2012年、思潮社)。その帯には「病院のベッドに横たわる詩人の前を 繃帯を捲いた死者たちが通り過ぎていく」と書かれていた。
こんなことにならないでくださいね。筆者がいうと清二はこう笑っていたことを思い出す。
「死がはっきりと形になるのは仕方がない。でもまだやることがあるから大丈夫じゃないかな」
※週刊ポスト2013年12月20・27日号