突然の悲報で幕を閉じた藤圭子(享年62)の人生は、まさに波瀾万丈だった。
1969年、18才の時に『新宿の女』で歌手デビュー。翌1970年には『圭子の夢は夜ひらく』が77万枚の大ヒットを記録するなど、1970年代を代表する歌手となったが、1979年に突如、芸能界を引退し、渡米。宇多田照實さんと出会い、娘・宇多田ヒカル(30才)を授かる。
宇多田の天性の才能にいち早く気づいたのは、藤さん自身だった。『悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾』(イースト・プレス刊)を書いた作家・大下英治さんが藤さんに会ったのは1994年のこと。その時、彼女は興奮気味にこう語った。
「娘は天才なのよ。今、ニューヨークで歌の勉強をしているから、見ていてごらん。あと何年かすると、あっと驚くようなデビューを見せるから」
4年後の1998年。その“予言”通り、宇多田は17才にして『Automatic』で200万枚突破という鮮烈なデビューを飾った。
2000年7月、宇多田のファーストツアーの札幌でのステージ。宇多田の「ママー」という呼びかけに応えて舞台に上がった藤さんは、娘とともに『圭子の夢は夜ひらく』をデュエットした。その日は夫・照實さんの誕生日だった。
会場にいた札幌在住の音楽ジャーナリスト・内記章さんは、藤さんの幸せそうな顔が脳裏に焼きついていると話す。
「藤さんは娘の活躍が嬉しかったんでしょうね。当時、メディアにはほとんど出ていなかったので、突然の登場に驚きました。ヒカルさんは、藤さんが歌うのを、横から温かい目で見守っていました」
もしかすると、この頃が彼女の幸せの絶頂だったのかもしれない。夫・照實さんとは離婚再婚を7回にわたって繰り返し、2006年に最後の離婚。宇多田も2010年から音楽活動を休止したままだ。そして突然の悲報──。
実は内記さんは藤さんが最初の引退をした1979年にも、彼女を取材している。
「暗い歌のイメージと違って、洋楽なんかの話を快活にしていました。都会的で、とても頭のいい人だったという印象があります」(内記さん)
そのDNAを確かに引き継いだ宇多田の復帰が待たれる。
※女性セブン2013年12月26日・2014年1月1日号