2013年12月17日、自宅の浴室で心不全のため亡くなった母・小川陽子さん(享年73)の葬儀で、中村獅童(41才)は喪主として挨拶し、「ぼくは弱い人間です。ぼくは思っている以上にお母さん子だったみたいで、おふくろがいないと何にもできないんだってことが、今ごろになってわかりました」と言って号泣した。
陽子さんが、獅童の父であり故・萬屋錦之介(享年64)の義兄にあたる三喜雄さん(初代・中村獅童、享年79)に嫁いだとき、三喜雄さんはすでに歌舞伎界を退き、銀行員の身であった。そして、結婚から10年の歳月が経ち、待望の長男が誕生。それが獅童だった。
錦之介さんの演技に憧れ、歌舞伎の道へ進んだ獅童だったが、そこに歌舞伎界の慣習が立ちはだかった。
「歌舞伎役者はほとんどの場合、父親の名跡を継ぎ、父親から芸を伝承されるもの。しかし、獅童さんのお父さんは早くに歌舞伎界から退いているため、後ろ盾がありません。それは歌舞伎俳優にとって致命的なことなんです」(歌舞伎関係者)
8才で歌舞伎の舞台に立った獅童は、名門萬屋の子役として初めこそ話題になったものの、中学、高校と進学するにつれ、役は回ってこなくなった。
「そんな顔で役者になろうなんて図々しい」
口の悪い親戚からは、そんな辛辣な言葉を浴びせられることもあったが、しきたりを重んじる歌舞伎の世界。陽子さんは返す言葉もなかったという。そして獅童は大学へと進学したが、歌舞伎の世界を諦めることはできなかった。
「歌舞伎の世界から離れていくにつれて、逆に獅童さんの中で歌舞伎に対する憧れが強くなっていったんです。陽子さんも獅童さんが歌舞伎役者としてやっていくことに反対していたんですが、20才になって、これからの人生を考えた時、獅童さんは“やっぱり歌舞伎役者として生きていきたい”と陽子さんを説き伏せたそうです」(前出・歌舞伎関係者)
大学を中退するほどの強い決意を抱く獅童に、陽子さんも覚悟を決めた。萬屋のひいき筋やご近所を巡り、獅童が出演する公演に来てくれるよう呼びかけ、京都時代(陽子さんは京都の造り酒屋の長女で18才で上京した)の同級生たちにも活動を手伝ってくれないかと頭を下げた。舞台裏で獅童の身の回りの世話をするのは陽子さんだけ。鏡台など重い小道具も担ぎ上げて階段を何度も往復した。
「大変だったと思いますよ。でも、彼女は当時のことを“すごく悩んだけど、獅童が歌舞伎をやってみたいと思うならもう全力で応援しようと決心したの。これからは何でもやる”と話していました。資金繰りも大変だったみたいで、忙しい合間をぬって、自宅の近くにブティックを開いて、着物に刺繍したり、裁縫教室を開いたりして懸命に働いていましたよ」(後援会関係者)
※女性セブン2014年1月9日・16日号