バブル期に咲いた徒花のように数多のアイドルが「1980年代」にデビューを飾り、黄金期の上昇気流に乗った。ノンフィクションライター・安田浩一氏がその代表格である中森明菜(48)の「肖像」を綴る。
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業界から漏れ伝わる明菜の「評判」は、当時にしてもけっして芳しいものではなかった。
わがまま、自分勝手、といった明菜の「素行」を問題視するメディアも少なくなかった。私が取材した関係者の中でも、明菜との衝突を経験していない人が、ほとんどいなかったことは事実だ。
だが、明菜は本当に「わがまま」だったのか。デビュー当時から、明菜のジャケット写真などを撮り続けていた写真家の野村誠一は、「誤解されやすいが、それも、ある種のプロ意識ではなかったのか」と明菜を弁護する。
野村が初めて明菜を撮影したときのことだった。表情は暗いし、どこかムスっとしている。どうにかだましだましの撮影を終えた野村にとって、明菜は必ずしも好印象を残さなかった。後に、野村は明菜へ訊ねた。なぜ、あのとき、不機嫌な顔を見せていたのか。明菜はこう答えたという。
「どうせアイドルなんて、売れなければ相手にされない。カメラマンに媚びたところで、意味ないじゃないですか。だから、きちんと売れるようになったら、そのときはしっかりと向き合おうと思いました」
野村は、その生意気とも取れる明菜の言葉に感心したという。
「彼女は彼女なりに仕事の“理由”を見つけているんです。海岸で撮影したときもそうでした。天候が悪く、強い風と湿気で髪型が乱れてしまった明菜は、『きょうはもう、これで撮影を終えましょう』と皆に進言したんです。
まだ十代なのにたいしたもんです。ものすごく際どい形ではあるけれど、これも立派なプロとしての心意気だと思いました」
そうなのだ。衝突の原因を探ってみれば、その多くはファッション、髪型、選曲など、どれもが「見せ方」を巡っての争いである。
明菜は自我を通した。セルフプロデュースにこだわった。周囲との摩擦を恐れず、ひたむきに走り続け、そして力尽きた。それが明菜の80年代である。
(文中敬称略)
※週刊ポスト2014年1月17日号