刑事ドラマに二時間サスペンス、大河ドラマなどに数多く登場する個性派俳優、蟹江敬三はかつて、いまは世界的な演出家となった蜷川幸雄氏とともに劇団を結成して若者から大きな支持を得ていた。劇団で活動していた当時の蜷川氏との思い出について蟹江が語った言葉を、映画史・時代劇研究家の春日太一氏が解説する。
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蟹江敬三は元々、引っ込み思案なタイプだったという。それが高校時代に偶然立った舞台で解放感を覚え、役者への道を志すことになる。当時の新人の登竜門的存在だった俳優座養成所には不合格になるものの、岡田英次・木村功の所属する劇団青俳に入団した。
青俳は1968年、岡田と木村の方向性の違いにより岡田が脱退、「現代人劇場」を新たに立ち上げ、蟹江も移る。現代人劇場には後に世界的な舞台演出家となる蜷川幸雄もいた。
蟹江は1972年に蜷川らと劇団・櫻社を結成、新宿を本拠地として若者たちから人気を博すようになる。蜷川幸雄といえば、役者を怒鳴り散らしながら追いこんでいく容赦ない演出スタイルで知られているが、そうした姿勢は若い頃から変わりはなかったようだ。
「蜷川さんには才気あふれる演出家としての輝きがありました。彼の演出は、本(台本)ができると、次にもうセットプランを作っちゃうんです。そして、いきなり立ち稽古に入る。本読みはしないんです。
それでも稽古になると『バカヤロウ!』ってダメを出されるから、みんなで必死になって自主稽古をやって頑張りましたよ。石橋蓮司も一緒にやっていましたね。
蜷川さんが怒るのは、芝居に工夫がない時です。昨日と同じことをすると怒るものですから、日々工夫しましたね。そうしながら、演技の基礎を学んだように思います。蜷川さんは、心の底から魂の叫びみたいなセリフが出てこないと納得しませんでした。
あとはテンポです。テンポがゆったりしているのもダメでした。セリフのテンポも速くて、ちょっとでもゆっくり話そうものなら、指を回し始めるんです。ですから、芝居全体のテンポも速いんですよ。
結局、劇団は解散になりました。蜷川さんが東宝で『ロミオとジュリエット』を演出することになって、反発するメンバーが出てきまして。僕は別にやってもいいと思っていましたけど。
元々、僕は集団に対する執着はないんですよ。ですから、劇団が解散した時も『よし、もういいや。俺は一人でやっていく』という感じでした。不安はありましたが、子供も生まれた頃でしたし、『何でもやるぞ』と」
●春日太一(かすが・たいち)/1977年、東京都生まれ。映画史・時代劇研究家。著書に『天才 勝新太郎』(文春新書)、『仲代達矢が語る日本映画黄金時代』(PHP新書)ほか新刊『あかんやつら~東映京都撮影所血風録』(文芸春秋刊)が絶賛発売中。
※週刊ポスト2014年1月17 日号