プロ野球の契約更改も一段落したが、かつて「1億円」という夢の数字を投手として初めて突破した人物が東尾修だ。「ケンカ投法」で1億円を稼ぎだした彼について、スポーツライターの永谷脩氏が綴る。
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「1億円プレイヤー」といえば、1980年代の野球選手にとって最高のステータスだった。打者で初は落合博満(現・中日GM)、投手は東尾修(西武)である。と言っても東尾の場合、1億円に到達した1986年の契約更改で、球団から最初に提示された額は9800万円だった。それに対して、「200万円は自分で払うから1億円と発表したい。俺にもプライドがある」と交渉。その意気や良しとして、当時の球団代表・坂井保之が1億円で再提示、合意した経緯がある。
「1億円投手」として迎えた翌1987年、東尾はパ・リーグMVPに輝く活躍でチームを優勝に導く。しかしその年のオフ、無免許営業の雀荘で麻雀賭博をしていたことが発覚。半年間の出場停止に加え、二軍行きを言い渡された。ハワイへのV旅行前日のことだ。これを境に、東尾の“野球”は大きく変わった。
例年、遊びながら体力作りをするのが「東尾のオフ」だった。彼のゴルフ好きは有名で、オフの調整にもゴルフを使っていた。東尾のラウンドは元日を境にガラリと変わる。大晦日までは勝負に徹する男が、新年にはティショットを打つと、打球まで全力疾走する。芝生の上での膝・腰に負担がかからないため、いいトレーニングになるのだ。
だが、事件後の1988年新春だけは別だった。ゴルフ場ではなく沖縄を自主トレの場所に選び、毎朝6時、万座ビーチのホテルから万座毛までの約10kmを1日も欠かさず全力で走った。
例年以上に体を痛めつけたこともあり、体調はすこぶる良かったが、1988年の開幕時、一軍名簿に東尾の名前はなかった。しかし二軍キャンプでは、宿舎までのランニング時に自分で「賞金」を出して、発奮材料にしていた。
この頃、東尾は一家で福岡から東京に居を移し、池田山(品川区)に仮住まいを始める。二軍での練習を終えて1人自宅に戻ってきた時、ビールのつまみにとベランダでメザシを焼いた。しかしそこは美智子皇后の実家があるような一等地。ベランダから上がった煙に、近隣の住人が119番。すぐに消防車が飛んできた。真面目に過ごしすぎた男が起こした“不祥事”だった。
結局、この年に引退を決意。前年15勝を上げた男が6勝に終わった。遊び心が信条の男が、真面目になったがために、ただの人になっていた。
※週刊ポスト2014年1月17日号