プロ野球界の長い歴史の中には、現役のままこの世を去った選手も少なくない。スポーツライターの永谷脩氏が、巨人からドラフト1位されながらもわずか20歳で急逝した湯口敏彦選手について綴る。
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楽天に1位指名された松井裕樹の始動の写真を見ながら、少し太ったのかなと思った。甲子園を終えた高校生の場合、今までの反動で遊んでしまったりして、調整が遅れる例が多々ある。特に甲子園常連校でない選手の場合、それが多い。思い出したのは、1970年のドラフトで巨人が1位指名した、岐阜短大附の湯口敏彦のことだ。
初めてのキャンプを控えた71年の正月。当時、湯口を加えて「高校ビッグ3」といわれた箕島の島本講平(南海)、広陵の佐伯和司(広島)に交換日記をしてもらうという少年誌の企画で、3人の実家を訪れた。湯口邸のある岐阜県の郡上白鳥を訪れたときは、雪が1メートルくらい積もっていた。家ではドテラを着た湯口が応対してくれた。話の最中、さかんに頭を気にしていたが、そこには5円玉ほどの円形脱毛があった。
「これで随分からかわれたんです。都会に行っても大丈夫かな」
温暖な和歌山で育ち、快活だった島本に比べて、雪国生まれの湯口は、人見知りする繊細なタイプだった。
制球に難はあったが、彼の速球は一級品だった。それを武器に甲子園でベスト4に入り、巨人に1位指名される。すると間もなく地元後援会なる組織ができ、“明日の大スター”とばかりに、蝶よ花よともて囃した。壮行会には同じ岐阜出身の巨人OBということで、森祇晶も招かれる大騒ぎ。私は森の担当をしていた関係で、同行した。
しかし周囲の熱狂とは裏腹に、田舎から急に出てきた逸材は、都会でのプロとしての生活に戸惑った。自分が一番だと思っていたスピードも、同僚から「あの程度なら多摩川(二軍の意)にゴロゴロしているよ」といわれる始末。同期入団の連中とランニングをすれば、スタミナ不足でどんどん置いていかれる。
首脳陣からは「今まで何をしていたんだ」と叱責を浴び、返す言葉もなかった。制球難から、キャンプ終盤にはフォーム改造の声まで上がるが、二軍投手コーチ(当時)の中村稔が川上哲治監督を説得し、なんとか1年間はそのままのフォームで通した。