20隻近くあった漁船は津波で全滅、漁師たちの自宅も流され、一時は廃業も視野に入った宮城県・閖上(ゆりあげ)港。銀座の名店「すきやばし次郎」の店主・小野二郎氏に「日本一」と称えられた赤貝の漁は、船も港もそして人までもあらゆるものを失った。漁の再開はまさに無からの出発だった。
〈築地で手に入る赤貝では、閖上(宮城)が最高でして、もう殻を見ただけでわかるんです。それに、あれだけ身が太ったのは、ヨソにはありません。凄く肉厚なくせに、不思議に思えるほど柔らかい〉(『すきやばし次郎 旬を握る』文春文庫)
こう最上級の賛辞を呈したのは銀座のミシュラン三つ星寿司店「すきやばし次郎」の職人、小野二郎氏。「幻の赤貝」と賞される閖上の赤貝だが、一時期、市場から姿を消し、消滅の危機に遭った。
2011年3月11日に発生した東日本大震災──宮城・閖上地区も、津波で漁船や建物が流され、壊滅的な被害を受けた。復興計画が練られる中で、効率化を図るため、規模が小さい宮城県漁協閖上支所は近隣市場と組織統合する話が持ち上がった。閖上から10km南の亘理(わたり)に事務所を置くこととなり、閖上支所自体の活動再開が危ぶまれた。
一方、赤貝組合長の出雲浩行氏は「とにかく赤貝が海にいるかどうかの確認が第一歩」と考えていた。四散した漁具をかき集め、震災から5か月後の2011年8月、なんとか漁船を1隻出して調査漁を敢行した。結果、赤貝はいた。赤貝がいれば漁ができる。だが、閖上で操業していた18隻の船はすべて流失していた。出雲氏の船も「陸に上がって数・先でまっぷたつになっていた」。
漁師らは漁協のつてを頼りに、青森や北海道の漁師から中古船を購入する。しかしまだ懸念材料が残っていた。その頃ニュースで取り沙汰されていた水産物の放射能汚染問題だ。試験採取した赤貝を県に提供し、放射能測定を依頼した。結果は「未検出」。お墨付きを得たことで、漁師らは漁を再開することに決めた。2011年12月、たった2隻で赤貝漁は再スタートした。
「俺たち漁師が先陣切って海に出なければ、誰もが怖がって海に近づかないような雰囲気だった」(出雲氏)