【書評】『逢えない夜を、数えてみても』/甘糟りり子/河出書房新社/1575円
【評者】鳥海美奈子(ジャーナリスト)
著者は、女性たちのリアルサイズな心の内を常に描出してきた。『中年前夜』では、無条件に人生を謳歌する若さを失い、不安のなかで生きる女性を主人公にした。そして『エストロゲン』では、47才という年齢に達し、刻々と減りつつある“女としての時間”をどのように受け入れるかを描いた。その著者の最新作だ。
別所彩音は、30代に入ったばかりのピアノ調律師。美人でもスタイル抜群でもない彼女に、6才年下の恋人・大樹は「運命を感じた」と言う。相手に必要とされ、欲せられ、束縛される喜びの日々。
一方で彩音は、珈琲専門店で出会った中年男性に興味を抱く。男の顔にはどこか見覚えがあるように思う。やがて、渡辺というその男の家のピアノの調律を依頼され、広尾の高級マンションを訪れる。彼は優雅な生活を楽しんでいたが、内面には孤独が潜んでいた。いつしか渡辺を救いたいと願い、惹かれ、まもなく性的関係を持つ彩音。
心地よい音色に彩られた生活に混じり始めた不協和音。女性の気持ちがデリケートに揺れ動く様や心の襞が繊細に描かれる。読み進むにつれ、主人公に同調し、著者の描く世界がリアルに立ち上がってくる。まさに著者の真骨頂だ。
なぜ彩音が、邂逅したばかりの渡辺に既視感を抱いたのか。その結末は、読者の楽しみを奪うことになるからあえてここでは書かない。しかしラスト、渡辺との関係が大樹の知るところとなり、修羅場を迎えた彩音は自分が犯した罪の重さを改めて思う。そして退院後、予定通り大樹との結婚を挙行するが…。
彩音の心には“母の不実”という陰が長年つきまとっていた。同様の行為に身を染めた自分も、暴力という手段を取った大樹をも彩音は静かに受容する。それは恐らく、母を受容した瞬間でもあっただろう。恋愛や結婚において「正解」とは何か。いや、そもそも「正解」はあり得るのか。
著者はこれまでも小説のなかで男や女の矛盾を、矛盾のままに切り取ってきた。その世界観は本作でも通底する。恋愛や結婚とは自らの不完全さを否応なく露呈する装置なのかもしれない。それをどう引き受けるか。そこに人生観が如実に表れるのだとの感慨を、改めて抱かされる一冊だ。
※女性セブン2014年1月30日号