日露戦争、太平洋戦争、米軍占領下を乗り越えて今も時を刻み続ける軍事的要衝──それが、呉(広島)・佐世保(長崎)という「2大軍港」である。日本初の帝国海軍鎮守府が置かれた横須賀に続き、呉と佐世保に鎮守府が開庁したのは明治22(1889)年のこと。太平洋戦争勃発に伴い、両港は軍事特需で大いに賑わい、人口は呉が40万人、佐世保が30万人を超え、歓楽街には人が溢れたが、敗戦後はどうなったのか。
敗戦後、それまで帝国海軍の重要拠点だった各港は、一転して連合国軍の管理下に置かれた。東シナ海への入り口となる佐世保は米海軍第七艦隊基地として、朝鮮戦争やベトナム戦争で作戦基地、補給基地となった。1952年に海上警備隊が発足。呉と佐世保に地方総監部が置かれ、日本の軍港として復活する。
「今の呉地方総監部の赤レンガ庁舎はかつての呉鎮守府庁舎です。戦前と同じ施設を使うのは陸海空のうち、『伝統墨守』をモットーとする海自のみ。海自は帝国海軍の施設と伝統を受け継いでいます」(軍事ジャーナリストの井上和彦氏)
そして現在──。桟橋や岸壁の多い呉の在籍艦艇数は約40隻。「いせ」「あぶくま」など護衛艦のほか、敷設艦「むろと」、音響測定艦「ひびき」、潜水艦救難艦「ちはや」などユニークな艦艇が係留する。
海の安全を担う潜水艦の在籍数も10隻と五大基地(横須賀、呉、佐世保、舞鶴、大湊)で最多となる。港に沿った「アレイからすこじま」公園からは、海に浮かぶ漆黒の潜水艦を間近に望むことができる。明治期に海軍軍人の埋葬地として開設された「海軍墓地」(現・長迫公園)には、「戦艦大和戦死者の碑」など、戦争の死者を弔う91基の合祀碑が並び、献花が絶えない。
日米地位協定により港湾の8割以上を米軍が管理している佐世保では、海自が港を“間借り”している。在籍艦艇は横須賀、呉より少ないが、国防の要であるイージス艦6隻のうち「こんごう」「ちょうかい」「あしがら」の3隻が集中配備されている。
周辺情勢の緊張により、佐世保所属艦隊の警戒監視業務は激増し、出入港回数も五大基地のうちで最も多い。125年の歴史に彩られた軍港に、今日も新たな波が寄せられる。
撮影■渡辺利博
※週刊ポスト2014年1月24日号