ついに火ぶたが切られた都知事選。東京都の年間予算13兆円、といわれてもピンとこないが、なんでもスウェーデンの国家予算と同じくらいなのだという。東京がいかにビッグシティーであり、国内においても多大な影響力を及ぼす都市であるかがわかる。その東京の顔を決める選挙が、脱原発で大注目を集めることとなっている。候補者もさることながら、その奥さんも実に興味深い。
脱原発を掲げて16年ぶりの政界復帰を目指すのが細川護熙元首相(76才)だ。その妻・佳代子さん(72才)は“ボランティア一筋妻”としてよく知られている。1947年に始まった赤い羽根共同募金発案者の1人といわれる経営者の娘として生まれた佳代子さんは、細川氏と上智大学の先輩後輩として出会う。
「ふたりは大学のゴルフ部で知り合ったんですが、細川さんは佳代子さんに一目惚れして、彼の方から告白したんです」(細川家を知る人)
しかし、何度かともにお茶をしただけで佳代子さんはふたりきりで会うのを断った。卒業後、細川氏は朝日新聞に就職し、熊本へ赴任。佳代子さんも卒業後は仕事でヨーロッパに駐在した。別々の道を歩んでいたふたりだが、運命的な再会を果たす。
「1969年に細川さんは初出馬した衆院選に落選し、失意のなかローマを旅するんですが、そこで偶然、仕事で訪れていた佳代子さんと出会ったんです」(政治ジャーナリスト)
落選しただけでなく、出馬を巡って両親とも断絶状態にあった細川氏だったが、彼女はそんな彼を励ました。
「今のぼくに必要なのは、きみの元気と明るさです」――細川氏の言葉に佳代子さんの心は初めて動いた。当時を彼女はインタビューでこう振り返っている。
《もし彼が挫折もなく、順調に政治家になっていれば、(プロポーズを)受けなかったかもしれません。この人、本当に私のこと求めているんだなあ、私でもし役に立つなら、同志としてこの人の政治家への夢を一緒にかなえてあげよう、という気持ちになったんです》
1971年に細川氏と結婚した佳代子さんは、夫の政治地盤である熊本への移住を決意。戸別に一軒一軒訪ねて挨拶に回り、祝い事の際は祝電は使わず、便せんに手紙を書いた。そんな佳代子さんの努力の甲斐もあって、細川氏は同年行われた参院選で初当選。その後、熊本県知事を経て、日本新党党首に。そして1993年に首相となった。
「1994年4月に細川さんが首相を辞任すると、佳代子さんは再び東京から熊本に自宅を移して、3人の子供を育てながらボランティア活動に乗り出しました」(前出・政治ジャーナリスト)
佳代子さんは1994年、知的障がい者がスポーツを通じて社会参加をする『スペシャルオリンピックス日本』を設立。細川氏が1998年5月に政界を引退し、神奈川県の湯河原に居を移してからも、全国を飛び回りボランティア活動に明け暮れた。2005年には長野五輪に併せて、『スペシャルオリンピックス冬季世界大会』を開催。
「佳代子さんと細川さんはお正月などに顔を合わせたり、たまに旅行に出かけるくらいで19年にわたって別居生活を送ってきました。でも今回、彼に出馬の意欲が残っていたのも佳代子さんの存在があったからかもしれません。隠居生活を送りながらも、佳代子さんを通じて、原発や福祉、オリンピックなどの問題について考える機会があったんですから」(前出・細川家を知る人)
※女性セブン2014年2月6日号