プロ野球界には数多くの伝説があるが、長い歴史の中では、“野球を観る側”で伝説となった男もいる。選手からも一目置かれた伝説のカメラマンについて、スポーツライターの永谷脩氏が綴る
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巨人V9の黄金時代に“伝説のカメラマン”といわれた男がいた。長嶋茂雄を立大時代から撮り続け、一時は運転手まで務めるなど“片腕”として活躍。若い頃は野球専門誌のカメラマンをしていたが、晩年は小学館の専属として、学年誌などで野球選手の表紙写真を撮っていた。名を佐藤二郎という。
キャンプの時期になると、1日でも多く巨人のキャンプ地・宮崎にいるために、国民宿舎に素泊まりし、自炊しながら過ごしていた。時には何日も車中泊をしていたこともある。“清貧”を重んじた佐藤のキャンプ中の唯一の楽しみは、取材に訪れた江夏豊と、西橘通りにあったステーキハウスで食事をすることだった。「これで当分食事をしなくても写真が撮れる」と笑った顔を思い出す。
第二次長嶋政権(1993~2001年)の時などは、自ら志願して、バッティング練習中の外野の球拾いをやるのが楽しみだった。球団からは「危ないから、佐藤さんにやめるように話してくれないか」と何度言われたことか。
それを伝え聞いた長嶋監督は、「二郎ちゃんの生き甲斐なのだからそれを取っちゃまずい。こっちが気をつければいいのだから」と許していた。プロ野球のカメラマン多しといえども、選手に気を遣わせるカメラマンはこの人を除いて知らない。
佐藤はいつも怒っていた。年始に作新学院の江川卓(後に巨人)の写真を撮りに、栃木県小山市の実家に行った時のこと。江川が「この写真、カラーですか、モノクロですか」と聞いたら、佐藤は「俺にカラーで撮ってもらうなんて10年早い」と怒鳴った。それがプロを目指すための励みの1つになったと、江川に聞いたことがある。
原辰徳(現監督)も入団の頃、「スイングした後、カメラのフレームにバットの先が収まらないのは振り切れていない証拠」と、実技指導までされていた。かくいう私も何度となく怒られた。当時、雑誌の表紙の野球選手といえば、白球を左頬につけ、ニコリと笑うお決まりのポーズばかり。「少しは変えてみては」と言うと、「俺に意見するなんて10年早い」と怒鳴られた。
ただ当時は、どんなに叱られても、“二郎さんの顔”に頼るしかなかった。球団の広報体制がしっかり出来上がっておらず、取材のセッティングなどしてくれない時代。そんな時でも、佐藤に頼めばうまくいった。佐藤が身銭を切って必死に頑張る姿を、当時の選手たちが「同じ一個人事業主」として認めていたからこそ、「二郎ちゃんに頼まれれば仕方がないか」となったのである。
※週刊ポスト2014年1月31日号