【書評】『ディア・ライフ』アリス・マンロー著 小竹由美子訳/新潮社/2415円
【評者】与那原恵(ノンフィクションライター)
昨年、ノーベル文学賞を受賞したアリス・マンローの最新短編集である。マンロー作品は日本でも新潮社のクレスト・ブックスを中心に刊行され、多くの読者を獲得してきた。私は彼女の世界に魅了されてしまい、翻訳を楽しみにしてきたひとりだ。けれど残念なことに本人が引退宣言をしたので、この『ディア・ライフ』が最後の作品集になるかもしれない。
マンローはしばしば「現代のチェーホフ」と称賛される。透徹したまなざしで人間を見つめ、精緻な筆致で心の機微を描いてきた。男女、幅広い年代にわたる主人公たちは、それぞれに愚かで、残酷さも秘めている。さまざまな人生は挫折を繰り返して織り上げられ、シミのような苦味や痛みもひとつの模様となった。
それでも読後に浄化されるのは、登場人物たちに流れた「時間」が巧みに描かれているからだ。あの時の、あの出来事はこんな意味を持っていた、それによって人生も変わったのだと気づくのは、その時点から遠く離れて、はるかに見渡せるようになってからなのだ。
本書にもそんな短編がおさめられている。「キスしようかどうしようか考えていて、しないことに決めたんだ」、一度きりの出会いでそう言った男に心を奪われる女性詩人(「日本に届く」)。第二次世界大戦の帰還兵が家に戻らず、列車から飛び降りる。その理由は最後の数行で明かされ、彼はふたたび列車に飛び乗る(「列車」)。不倫関係を続けてきた男の裏切りと、それを知ってから(「コリー」)。
一篇に二、三か月、ときには八か月かけて書き上げる作品は、静かな語り口でありながら精巧に構成されている。読むうちに、いつしか読者自身の過去の記憶や、忘れていたはずの当時の感情さえ呼び覚ましてしまうだろう。
最後の「フィナーレ」と題された連作四篇は、自伝的作品だという。とりわけ表題作は、マンロー作品のすべてが詰まっていると評される濃密な味わいだ。人生で背負ってきた悔いと、自らに与える許し。深い余韻を残してやまない。
※週刊ポスト2014年2月14日号