プロ野球の歴史を振り返ると今はない球団の名前がいくつもある。中にはとにかく弱いことで記憶に残る球団もあった。わずか3年間だけ存在し、日本プロ野球黎明期の名投手スタルヒンも在籍していた高橋ユニオンズは最弱球団と呼ばれた。
高橋ユニオンズは1954年、パ・リーグが8球団制に移行した際に参入。「各球団のトップ選手を集める」と口説かれた財界の大物・高橋龍太郎がオーナーとなり結成された。
しかし蓋を開けてみると、集められた選手は戦力外となった者や、ピークを過ぎた者ばかりだった。もちろん優勝争いなどできるはずがない。1年目こそ6位と踏ん張るが、2年目、3年目は最下位。そして3年目終了後、パが「球団数を6に減らす」と方針を転換すると、『大映スターズ』と合併・消滅した。
『高橋』が3年目に巻き返しを図るため入団させたのが、慶大の花形内野手の佐々木信也だ。引退後は『プロ野球ニュース』(フジテレビ系)の初代総合キャスターを務めた。同氏が語る。
「当時はプロより東京六大学の方が人気があった時代。観客も文字通り数えるほどしかおらず、実際数えてみたら32人しかいなかった試合もある。両軍ベンチをあわせて50人だから、選手のほうが多かった(笑い)。
当時、パには年間のチーム勝率が.350を割ると“罰金500万円”という規定があり、3年目最終戦の毎日戦は負けると罰金でした。そこでマネージャーが相手の別当薫監督に頭を下げて勝たせてもらった。引き替え条件は、毎日にいたシーズン記録のかかった選手に記録を更新させること。二塁打記録だったので、中前打を蹴飛ばして二塁打にしていました(笑い)。
相手は勝たせてくれるので、打席では捕手が“真っ直ぐだけだよ”と囁くんです。投手も打たせようと軽く投げる。しかしこれだと逆に肩の力が抜けて、伸びのあるいい球が来るんです。ウチの選手じゃ打てなくて、3回までノーヒットでした(笑い)。慌てて相手に投手を替えてもらって勝てた。いい時代でしたね」
しかしその翌年のオフ、チームが合併する。
「実際は“解散”です。キャンプ中に『高橋解散』という記事が出たが、まさか本当になくなるとは思わなかった。宿舎に記者が押し寄せて大騒動になり、選手は下位3球団の近鉄、東映、大映に割り振られた。そのまま別の球団のキャンプに向かって散り散りになったんです。その日以来、会っていない仲間も多い。野球をやっていたなかで、これが一番残念ですね」
※週刊ポスト2014年2月14日号