現在、中畑清監督のもと強いチームをめざす横浜DeNAベイスターズが現在の球団名になったのはわずか2年前。モバゲーで知られる会社が球界参入すると話題になったが、この球団の歴史は約60年前に始まり、いくつもの変化を経てきたが、成績低迷が長い球団としてもファンには知られている。
1950年に2リーグ構想が打ち出された後、『大洋ホエールズ』が誕生。『松竹』との合併などを経て、1955年から神奈川県に本拠地を移転。1993年に親会社の大洋漁業が「マルハ」に呼称を変更するとともに『横浜ベイスターズ』となり、2002年にマルハからTBSへ株式が譲渡され、大洋球団としての歴史は幕を閉じた。
1950年から2001年までの52年間で、リーグ優勝・日本一は2回(1960年、1998年)。しかしAクラス14回に対して、Bクラスは38回と3倍近くとなり、1950年から1959年までは10年間、連続でBクラスとなった。
低迷に喘ぐチームで1人気を吐いたのが、1967年のドラフト2位で大洋に指名された平松政次だ。12年連続2ケタ勝利を挙げるなどエースとして活躍、200勝も達成。また巨人キラーとしても鳴らし、金田正一(65勝)に次ぐ51勝を挙げている。平松氏が語る。
「18年、大洋で投げたけど、結局、優勝経験がないんだよね。当時は巨人がずば抜けて強かったから。でも、優勝してもおかしくない年もあったんです。例えば1971年は、チーム防御率が2.31で12球団ナンバー1。でもチーム打率が.216で12球団最低(笑い)。これじゃ勝てないよね。
こんな調子だから人気もなかった。川崎球場の巨人戦とか、珍しい現象が起きていましたよ。大洋の本拠地なのに、三塁側の巨人応援席から埋まり、最終的には8割が巨人ファン。後楽園では切符がなくて入れない巨人ファンが、川崎や神宮に来ていたんです。本拠地でも巨人ファンの声援の方が大きいんだから(笑い)。
川崎球場は満員で3万人だったが、巨人戦以外は1万人に届くことがほぼなかった。あの頃は関東の阪神ファンは少なかったし、他球団のファンも川崎にはほとんど来なかった。
僕が巨人キラーになったのも、巨人に勝てばスポーツ紙の一面になって、全国区で名前を上げることにつながるから。でもとにかく巨人戦では点を取れないから、こっちも1点もやれないと必死で向かっていく。毎回クタクタでしたよ」
※週刊ポスト2014年2月21日号