【書評】『名取洋之助 報道写真とグラフィック・デザインの開拓者』白山眞理/平凡社/ 1680円
【評者】池内紀(ドイツ文学者・エッセイスト)
名取洋之助という写真家がいた。ある世代以上の人は「岩波写真文庫」でなじんだかもしれない。一九五〇年代に始まった写真シリーズで、時代のさまざまなテーマを写真で「読む」ように構成してあった。「編集・制作 名取洋之助」。シリーズ物の生みの親だった。
学業不振で親に見放され、十八のときドイツへ渡り、ミュンヘンで商業美術を学んだ。ドイツ娘に恋をして、彼女の写真からハタと思いつき、グラフ雑誌に投稿。当時、世界最大の発行部数を誇った「ベルリン画報」の契約カメラマンになった。ときに弱冠二十歳。
一九三六年のベルリン・オリンピックはヒトラーのナチ党が政治的に大いに利用したことで知られているが、名取はドイツと日本の両面からシャッターを切った。ルポルタージュ・フォトを「報道写真」と名づけた。オリンピックが終わり世界のマスコミが去ったあと、ナチス・ドイツの風景を写真に収めた。
「ジャーナリスティックな物の見方や、題材の掴み方に馴れてくると私の写真はそれだけで売れた」
ドイツのあとはアメリカで、「ライフ」「フォーチュン」などで仕事をした。日本に帰ってからは報道写真やデザインの制作集団「日本工房」のリーダーとして活躍。これとみこんだ若手には「好きにやっていいよ」を口癖にした。土門拳、木村伊兵衛、亀倉雄策、三木淳……。名取とのかかわりが一生を決めた人が少なくない。
写真と著書、また思い出から、五十二年の生涯と仕事が手ぎわよくまとめてある。その「物の見方、題材の掴み方」はジャーナリスティックだけにとどまらなかった。テーマの立て方、写真メディアへのとりこみ方は今みても新鮮である。
おおかたの写真が現象の報告にとどまるなかで、名取洋之助は現象の根っこにとどくシーンを的確に映像化した。どの写真も深い陰影と物語を秘め、つねに未来性を指している。早い死は惜しまれるが、その生涯がひとりきびしく自らを鍛えた人の凝縮された時間であったことがよくわかる。
※週刊ポスト2014年2月28日号