いよいよ始まった、フィギュア浅田真央(23才)のソチ五輪。ここに至るまで、紆余曲折があった。
バンクーバーでは、トリプルアクセル3回成功というギネス記録をつくるも、キム・ソナに敗れ、銀メダルに終わった。その半年後、佐藤信夫コーチ(72才)の門を叩いたが、なかなか新しいジャンプを身につけることができなかった。
そんななか、さらなる試練がのしかかる。2011年12月、困難に直面するたびに手を差し伸べてくれた母・匡子さん(享年48)が、帰らぬ人となったのだ。
浅田は2011~2012シーズンが終わった2012年4月、ついに滑るのをやめた。
「今までのことをリセットしたい」
「やめたいと思っている」
練習の虫──ラフマニノフを振り付けたタチアナ・タラソワも、男子シングルでともに佐藤コーチに師事する小塚崇彦選手(24才)も、浅田をこう評する。練習量が多い選手でさえ1日、4~5時間といわれるなか、8時間リンクに立ち続ける日もある。そんな浅田が、スケートから離れた生活を送るのは、スケートをはいて以来初めてのことだった。
普通の女子大生のように、買い物に出かけ、カフェでお茶を飲んでもみた。姉の舞と、山梨県の農村を旅行してもみた。
「“遠征以外でホテルに連泊するなんて初めて”なんて真央ちゃんは言ってましたよ。陶芸や乗馬をしたり、今までに体験したことのないものをやってみたいようでしたね。畑に、トマトやかぼちゃの苗を植えたときは、小さなトラクターに乗って自分で耕してました」(ホテル関係者)
2週間後にリンクに戻ったが、やる気は戻らなかった。
「本当にこのままやめようかな…」
浅田は2012年7月、夏の日本代表選手の強化合宿に参加した。そこでは、高橋大輔選手(27才)が4回転ジャンプを跳び、鈴木明子選手(28才)が新しい振り付けをコーチと打ち合わせしていた。浅田以外の誰もが、2年後のソチに向けて、必死で練習に励んでいた。
「このときの浅田は、簡単なジャンプも跳べませんでした。ほかの選手との仕上がり具合の差に愕然としたそうです。高橋は2008年の大けが、鈴木は大学時代の摂食障害を克服してきてリンクに立っているのに、“自分は何をしているんだろう”と、ますます追い込まれてしまったかもしれません」(スポーツ紙記者)
どん底の浅田が、再び前を向くことができたきっかけは、やはり匡子さんへの思いだった。2012年12月、GPファイナル出場のため、ソチに降り立った。ソチ五輪と同じ会場で、彼女は最高の演技を見せた。大会4年ぶりの優勝を果たす。
この栄光を勝ち取った日は、匡子さんの一周忌前日だった。記者団に、母への報告をどうするか聞かれると、「いつもと変わらないと思います」と、淡々と答えたが、その後、大粒の涙があふれ出した。
「この大会で、彼女はそれまでとまったく違う滑りを見せました。母の一周忌。そして、五輪開催地の国際大会ということで、浅田は“自分にとってスケートとは何か”を必死で考えたそうです。匡子さんのために金メダルを獲りたい。その気持ちを思い出したのだと思います」(前出・スポーツ紙記者)
一周忌当日、浅田がエキシビションで踊った曲は、ディズニー映画『メリー・ポピンズ』のテーマ。軽快なリズムに合わせて、軽やかに踊るフリルのスカート姿の浅田は、おどけた表情をしたり、満面の笑みを見せたり。
そのいきいきとした姿は、トリプルアクセルを軽々と跳んでいたあのころと重なる。ひとつだけ違うのは、そこに力強さが加わっていたことだろう。
浅田の“完全復活”だった。この時期、佐藤コーチと続けてきたスケート改造の成果もようやく出てきたのだ。
そして、復調のきざしを見せてきた、2013年4月、浅田は突然、引退を宣言する。
「五輪という最高の舞台で、集大成としていい演技ができるようにしたい」
この言葉には、匡子さんとの“ある約束”が関係している。女性セブンのインタビューに匡子さんは、こんなことを話していた。
「子供たちと約束してたことがあるんです。それは、やると決めたことは投げ出さないで最後までやり遂げるということ。中途半端はいけない。その分、私たち親は全力で協力しようと決めていました」
※女性セブン2014年3月6日号