近著『医者に殺されない47の心得』が108万部のベストセラーになっている慶應義塾大学病院放射線科の近藤誠医師。1996年に著書『患者よ、がんと闘うな』で医療界に大論争を巻き起こし、25年間、独自のがん治療法を訴え続けてきた。独自の理論は医療界で黙殺される中、巨大な医療界とたったひとりで闘い続けてきた。
決定的な事件が起きたのは、1987年のことだ。Aさんという乳がん患者が、朝日新聞に載った近藤医師の乳房温存療法の記事を読み、慶應病院を訪ねてきた。しかし入院すると、外科は慣例通り切除手術の準備を進めた。
不安になったAさんは「近藤先生は、何と言っていますか」と何度も主治医や看護師に聞く。だが、その事実は近藤医師には知らされなかった。ある日、看護学生が言った。「看護実習をしている外科病棟にAさんという乳がんの患者さんがいます。近藤先生のことをしきりに言っていますが、ご存じですか」と。
「外科はぼくに知らせずに、しかも患者本人が望まない乳房切除手術をしようとしたのです。『そんなバカな』と仰天しました。それはぼくには犯罪としか思えなかった。ぼくはAさんと秘かに会いました。その後、彼女は慶應病院を退院して、他で乳房の一部だけを切り取る手術を受けた。それでぼくが放射線治療を施したのです」(近藤医師、以下「」内同)
近藤医師は、巨大な大学病院という組織の中で、手も足も出ない自分を見つめた。
「そこで世論に訴えることにしたのです。出版社に温存療法についての資料を一斉に送った。いくつか取材に来たけれど、女性誌は“奇跡の療法”などとオカルト扱いでした。しかし間もなく、TBSの記者が取材に訪れた。温存療法がテレビで流れると、外来患者が一気に増えたのです」
なかでも近藤理論を世に知らしめる決定的な出来事は、『文藝春秋』誌からの執筆依頼だった。そのとき迷ったのは「慶大をはじめとするどの大学病院でも乳房を切る」と書くか否か。慶應の名を出せば、もはや出世は望めない。院内でも村八分になるだろう。はたして、その孤独に耐えられるか。自問自答は続いた。
「でも、Aさんのような患者をまた生むわけにはいかない。医師としてぼくにできるのは一人でも多くの女性の乳房を救うことだと決意したのです。娘たちにはこう言いました。“これから外科と一戦を交える。貧乏になるかもしれないから覚悟してほしい”と」
1988年、『文藝春秋』に「乳ガンは切らずに治る」と題する論文が掲載された。
発刊後、予想通り、院内の他科から回される患者はゼロになった。だがそれとは対極的に、近藤医師に診察してほしいという患者は増え続けた。他でもない、がん治療に疑問を持つ患者自身が近藤医師を選んだのである。
2012年、乳房温存療法のパイオニアとして抗がん剤の毒性、拡大手術の危険性など、がん治療における先駆的な意見を一般人にもわかりやすく説明した功績により菊池寛賞を受賞した近藤医師は「思いがけない賞で、本当にうれしかったですね」と語る。この3月、慶應病院を定年退職する近藤医師は今後、自ら設立した『近藤誠がん研究所・セカンドオピニオン外来』で仕事に邁進する。その闘いは、依然続く。
※女性セブン2014年3月6日号