ごく一部の試合を除いでスタンドには閑古鳥が泣いている大学野球だが、かつては東京六大学野球がプロ野球以上の人気を誇っていた時期もあった。六大学野球が生んだ最大のスターが長嶋茂雄だが、その長嶋と同時期に早大で活躍しプロに進んだ森徹について、スポーツライターの永谷脩氏が綴る。
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長嶋茂雄が一目置いていた男が、2月6日に急逝した。東京六大学野球華やかなりし頃、長嶋と同期だった森徹である。長嶋は立大、森は早大。東京六大学選抜で、ともにフィリピンに遠征したときの話を、森から聞かされたことがある。
「シゲのヤツ、我先に遊びに出て行くから、自分は出かけるに出かけられず、いつも留守番だったんだ」
長嶋が口癖のように語る「六大学の仲間は特別なんだ」というのは、こんなところに表れているのかも、と思ったものだ。
大学卒業後、森は中日、長嶋は巨人に入団。2人は常にライバルだった。新人王は長嶋が獲得するが、森はそれが余程悔しかったのだろう。森と中日で同僚だった江藤愼一によれば、森はその年のオフ、「長嶋」と名前の書いた手ぬぐいを木机に巻きつけ、それに向かって何回も素振りをしていたという。それをバネに2年目は、本塁打王・打点王を獲得。しかし首位打者を長嶋に奪われ、三冠王を逃している。
森の両腕の太さは競輪選手の太モモぐらいあった。何度か触らせてもらったが、「これだけの太さがないとプロで本塁打王になれないのか」と思ったものだ。しかしそんな男でも、
「野村(克也)は“長嶋は向日葵、俺は月見草”と言って拗ねているけれど、長嶋は宇宙に咲く花だよ。存在しないんだから、どんなに頑張っても敵わない」
と、長嶋と同じ時代に生きたことを悔やんでいた。中日の4番を打ちながら、大洋(現・横浜DeNA)に移籍。プロ野球人生は11年で終わっている。
森が早大に在籍していた頃、野球部は高田馬場にあり、選手たちは安部寮という合宿所に住んでいた。寮の玄関の隣には、学生野球の父といわれる飛田穂洲が、リーグ戦になると泊まっていた部屋があった。
選手たちは試合に負けた夜など、憂さ晴らしに飲み過ぎて、門限を破って戻ってくる。すると翌日の朝礼で、飛田先生が「0時を過ぎた頃、玄関でゴトゴトした音があったがあれは何だったのかな」と話すのだという。多くの部員が真っ青になったが、森は毅然としてこう言った。
「昨夜は風が強く吹いていました。雨戸を何度か閉め直しましたが、その音かと思います」
それによって何度か門限破りが救われたと、3年後輩の徳武定祐(国鉄など)が懐しんでいた。豪快な中に優しさを持つ、昭和の野球を体現した男だった。
※週刊ポスト2014年3月7日号