『こども音楽コンクール』(TBSラジオ系)や『モーニングEye』(TBS系)などの司会を務め、柔和な表情と話しぶりから“文さん”の愛称で親しまれた山本文郎さんが、2月26日午前2時6分、肺胞出血のため、79才で亡くなった。
“生涯現役”を掲げ、TBSを定年退職したあともフリーアナウンサーとして活躍。2008年7月には、由美子さん(48才)と31才差での再婚もしている。亡くなる8日前の2月18日にも地方での仕事をこなし、病床でも今後のスケジュールを気にするなど、最期までその務めを全うしようとしていた。
2月20日の夜、銀座で石田純一(60才)の長女・すみれ(23才)のコンサートを楽しんだ文さんと由美子さん。帰宅後の深夜0時半頃、就寝しようとしたとき、突然、文さんが「胸が苦しい」と訴えたという。
「コンサート前には、ビアホールで普段と変わらずビールや大好物のウインナーをたいらげていましたし、コンサート中も音楽に合わせて指揮者のまねをしてふざけてみたり。本当に、いつもと変わらない様子だったんです」(由美子さん)
すぐにかかりつけの病院に行き、検査を受けたところ、結果は“肺の組織からの出血”。そのまま入院することになった。
「そのときは、検査を受けているはずの主人はピンピンしていて、私のほうが寝不足でフラフラの状態でした。病室のベッドに私が横になって、彼がいすに座っていたほどです」(由美子さん)
翌日以降も、入院の知らせを受け、心配そうに駆けつけた友人たちが拍子抜けしてしまうほど、文さんの調子はいたって良好だった。亡くなる8時間ほど前の25日の夕方も、見舞いにきた親戚や友人の前で、元気な笑顔を見せていた。ゴルフ仲間の男性は、そのときの様子をこう語る。
「呼吸器具をつけていましたが、ちゃんと会話はできていました。ベッドに腰かけて、クロスワードパズルをやっていて。“そんなことしてていいの?”と尋ねると、“もちろん、いいよ~”と。元気そうなので、ひと安心していたのですが…」
この日は、夜遅くまで見舞い客や親族が文さんを励まそうと訪れたため、病室はずっとにぎやかだった。
由美子さんと文さんがふたりになったのは、深夜0時すぎ。しかし、事態は一変する。由美子さんが「みんな帰ったよ」と伝えた途端、文さんが苦しみ始めた。
「人前では、ずっと笑顔でしたから。みんなが帰ったことで、スイッチが切れたみたいに苦しみ出したんです。それでも意識はあって、“由美子だよ、わかる?”と聞いたら“うんうん”と頷いて。手を握って“そばにいるからね。愛してるよ”と声をかけ続けました」(由美子さん)
だが、そんな由美子さんの懸命の呼びかけも虚しく、最後は眠ったのかと思うほど静かにスーッと息を引き取った。
「先生に臨終を告げられると、すぐに“お疲れさまでした”と主人に頭を下げました。私は死んだのではなく、“引退”したんだと感じたので…。主人が逝ったのは2時6分でした。6チャンネル(TBS)で育った彼らしく、“6分”まで頑張ったんだと思うんです…。ですから…“あなた様は天晴れだ! すごい人だ!!”と声をかけたんです…」(由美子さん)
※女性セブン2014年3月20日号