1月末、日本野球機構(NPB)は、中日ドラゴンズの私設応援団連合に対し、応援許可を出さないことを決定した。鳴り物を使った応援には賛否の声もあるが、過去にはファンから大いに愛された応援団長もいた。スポーツライターの永谷脩氏が、ヤクルトの伝説の応援団長で、漫画『がんばれ!!タブチくん!!』(いしいひさいち著)にも登場した岡田正泰氏のエピソードを綴る。
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「応援団というのはよ、バカじゃできない、賢くてもできない。中途半端じゃ、尚できないってもんだぜ。出すぎてもいけねェ、出すぎなくてもダメなんだ」
そんな信念を口癖にして、神宮球場に一大ブームを巻き起こした「伝説の応援団長」がいた。名を岡田正泰という。喜劇俳優の大村崑にも似た鼻メガネで球場に現れ、3回ぐらいになると内野席の金網に上って声を張り上げる。国鉄時代から、スワローズを熱心に応援していた。
岡田の応援はすべて手作り。家業が看板屋だったことも幸いして、応援のプラカードを全部自分で作っていた。かつて杉並区の永福町にあった自宅兼作業場には、描きかけの仕事の看板がズラリと並ぶ中に、明日の試合に使うプラカードも何本かあった。すべて描き上げると、空が白々と明るくなっていることもザラだったという。
ただ岡田の自慢は、「優勝を決めた翌日だって本業の看板描きは休まなかった」ことで、夫人も「本業には絶対に影響させない、というのがこの人なのよ」と認めていた。そして「私よりもヤクルトに恋をしたのだから仕方がない」と、眼を細めて見守っていたことを思い出す。
『東京音頭』に乗って、傘を振って応援する現在のスタイルも、岡田が考案したものだ。最初、『東京音頭』を演奏するトランペットの奏者は、神宮外苑で1人で練習していた大学浪人生だった。岡田が彼の音色を聞いて口説いたのだという。また傘での応援も、神宮外苑に来ていたアベックが捨てたビニール傘を見て、使えないかと考えたという話を聞いた。
晩年、岡田に1枚の写真を見せてもらったことがある。1978年の優勝メンバーが一堂に会した記念写真の中に、ちゃっかり岡田団長も写っているのだ。
「オヤジがいたから優勝できたんだって、大杉(勝男)さんがグラウンドに入れてくれたんだ。応援団冥利に尽きるよな。出すぎちゃいけないんだけど、この時だけは許してもらった」
そういって、照れ笑いを浮かべていた。岡田は画一的で、一方的な押しつけの応援を嫌っていた。神宮の持つアカデミックさと、インテリジェンスと、江戸っ子の粋。巨人でも日本ハムでもなく、神宮にヤクルトがいなければならない理由を、『東京音頭』で教えてくれたように思う。
※週刊ポスト2014年3月14日号