教職を辞して俳優の道を志して文学座に入団した直後から、俳優の加藤武は世界的巨匠の黒澤明監督の映画に出演し続けた。クロサワ映画で共演した、世界のミフネこと故・三船敏郎氏と共演したときの思い出について加藤が語った言葉を、映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづる。
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『蜘蛛巣城』『隠し砦の三悪人』『悪い奴ほどよく眠る』『用心棒』『天国と地獄』……、加藤武は1950~1960年代、黒澤明監督の映画に数多く出演している。まだ俳優人生を始めて間もなかった当時の加藤にとって、世界的巨匠の撮影現場は過酷なものであったという。
『悪い奴ほどよく眠る』では、復讐のために汚職事件を暴こうとする主人公(三船敏郎)の親友役に抜擢されている。
「監督もびっくりしたろうね。こんな下手な奴とは思わなかったんじゃないかな。セリフを喋れば怒られてばかりいた。
車のディーラーの役なんだけど、当時では最先端のモダンな職業だ。食事といえばかけそばばかり食べていた研究生の私に生活感が出るわけがない。リラックスした動きができないんだ。『顔が強張ってる』って、何べんNGになったか。三十回まで数えたけど、あとは分からなくなったくらいだった。
そのシーンでは私の後に三船さんが出ることになるんだけど、何もいわず待ってくれていた。三十何回目かのNGが出て、喉がカラカラになって喋ることも私はできなくなった。すると三船さんが黙って水を渡してくれた。あの水は黄金の水だった。
凄く思いやりのある人で、セットでこっちが突っ立っていると腰掛けを持ってきてくれたりもする。一番尊敬している俳優は三船さん。私も、新人が何回NGを出しても嫌な顔をしないように心がけている」
●春日太一(かすが・たいち)/1977年、東京都生まれ。映画史・時代劇研究家。著書に『天才 勝新太郎』(文春新書)、『仲代達矢が語る日本映画黄金時代』(PHP新書)ほか新刊『あかんやつら~東映京都撮影所血風録』(文芸春秋刊)が発売中。
※週刊ポスト2014年3月21日号