日本の教育問題で偏差値はよく「悪者」にされる。しかし偏差値教育の勝者でありながら大手企業でなく中小企業、ベンチャーに飛び込んでいく若者たちがいる。コラムニストのオバタカズユキ氏がリポートする。
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他の国でもそうかもしれないが、日本人は教育談議が大好きで、ときに熱くなりがちだ。学校教育を受けるのは多感な時期なので、人それぞれに思いがあり、大人になっても一言申さずにはいられない。
最近では、3月8日から10日にかけて、脳科学者の茂木健一郎氏がTwitterでほえまくった。共感と反感、同意と異論がネット界で渦巻き、たとえば、以下のツイートは、1万1千回以上もリツイートされた(3月12日現在)。
<つぶれろ、駿台、つぶれろ、代ゼミ、つぶれろ、河合塾、つぶれろ、東進ハイスクール、つぶれろ、ありとあらゆる、偏差値を計算する、くされ外道予備校ども、みんなつぶれろ! 日本の10歳、11歳、12歳、13歳、14歳、15歳、16歳、17歳を、偏差値奴隷から解放せよ!>
ありゃま、酒酔いで暴走しちゃったのかなという印象だが、茂木氏はいったん寝て起きてまたPCに向かったようだ。約7時間半後にも、<っていうか、昨夜の一連のツイートの、最後のやつが7000回近くRTされていて、びびりました。一夜明けても、認識は全く変わりません。偏差値に基づく受験産業は、日本に要らないと私は断言します。>とつぶやいた。翌々日まで同テーマで35本前後のツイートに励んでいた。
何が茂木氏の逆鱗にふれたのかは、いまひとつ不明だ。が、氏の主張自体はわりとシンプルで、勝手に意訳させてもらうと、偏差値による序列化は日本の子供たちを委縮させている、偏差値入試は日本人の自由な能力の開発を妨げている元凶である、という話をしていた。
もう何十年も前から繰り返されている偏差値社会批判と、茂木氏の主張はそんなに大きく変わらない。やたらに細かい暗記を強いるなどの詰め込み教育で大学入試に向かわせることの不毛さ、その入試の結果がまんま大学卒業後の社会的ポジションにつながることの理不尽さに怒っている。
大学受験経験者のうちかなりの割合の日本人は、「こんなの覚えたって将来に無意味じゃん」「なのに偏差値で自分の価値が決まるとかやってられねーよ」と愚痴ったはずで、茂木健一郎氏はその思いを熱く代弁してくれたわけだ。昔の私も同様の不満を強く抱いた受験生だったから、茂木氏のツイートで救われた若者がいたとしたら、その気持ちが手に取るようにわかる。
けれども、だ。同時にその救いの声は、若者が目前の受験勉強から逃げたい気持ちを正当化する悪魔の囁きにすぎない、といえるかなとも思う。好きでも得意でもない勉強をさぼるための口実にしかならない、危険性がある。
本当に偏差値アップのための受験勉強が無意味だと考え、偏差値で自分の価値が決められたくないのなら、そういう若者は偏差値の指標では測れない世界に飛び出せばいいのだ。大学など行かずに料理人や大工としてその道の一流を目指したり、進学するにしても医療や芸術など職業直結型の学部を志望するといった生き方を選択すればいいのである。現にそうした道に進む若者もたくさんいるのだから。
なのに、ぼやっと「少しでも偏差値の高い大学」を目指す若者は、そこまでやりたいと思えることがなく、これといった自分の強みも見当たらないからそうするわけだ。だったら、暗記が無意味だろうが、偏差値で自分の価値を決められたくないと感じようが、うだうだ言っていないで、やれることをやれ、となる。まずは受験勉強の世界で「やり切った」実績をつくってみろ、という予備校的な叱咤のほうが彼らの心に刺さるし、彼らの将来のためにもなるのである。
茂木氏の学歴は、日本有数の進学校である東京学芸大学付属高等学校→東京大学理学部→東京大学法学部→東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了、というハイエンドなものだ。おそらく勉強がまあまあ以下しかできない「その他大勢」の気持ちは分からないだろう。自由にやりなさいと言われたら、ついついさぼってどこまでも安きに流れてしまう「普通の人」のダメさ加減を実感できないだろう。
私自身は、「その他大勢」の一人であり、「普通の人」である。そういう意味で自分が偏差値教育を受けていた頃を振り返ると、受験勉強は無意味だったというよりも、「世界史ぐらいはきちんとやっておけば教養の土台になったよな」と思うし、「偏差値もハンパな私大レベルで納得しないで、もう一段上を目指して成し遂げたら人生違っていただろうな」などと考える。
また、茂木氏の目には、日本の偏差値教育システムが、子供たちを委縮させ、若者の自由な能力の開拓を妨げている、と映っているようだが、私の目にとまるものは違う。むしろこの国で革新的な仕事をしていくのは、やっぱり高偏差値大学卒の人たちからなんだな、という感触がある。
今年の2月20日に刊行した『大手を蹴った若者が集まる知る人ぞ知る会社』(朝日新聞出版)という自著の中の登場人物たちがそうだ。約1年間をかけて、各々の持ち場から社会変革を目指す中小ベンチャー企業5社の経営者や社員たちをインタビュー、ルポルタージュ風にまとめた1冊だ。
その取材過程で知り合った若手社員はみな極めて優秀な人ばかりだったが、最終学歴で多かったのは、東大、慶應、一橋、といった具合だ。同じ東大卒でも、ガリガリ勉強をしてきてやっと合格というのではなく、「もう1年勉強すれば理IIIに届く成績でしたが、そこまでして医学部に進むモチベーションもなかったので理Iに進みました」と軽く言ってのけるような秀才たちだった。
彼らは、日本の偏差値教育システムの先端を走ってきた若者たちといえるはずだが、発想も生き方も自由だった。本のタイトルが示すように、総合商社や外資系コンサルティング会社やメガバンクなどの内定を取ったのに、それを辞退して、先のわからないベンチャーを選んだような人々である。
なぜ大手ではなく中小ベンチャーなのかについては、いくつかのパターンがあった。早いうちから起業家志望だったというタイプ、根が真面目で大手企業でのぬるい働き方では納得できないというタイプ、生粋の職人肌で自分の肌に合う仕事ができる小さな会社を選んだというタイプなどがいた。
しかし、いずれにせよ、大きな変革期にある日本を考えたら大手企業でゆっくり育成してもらっている場合ではなく、若手に大きな権限を委譲する中小ベンチャーでバリバリ働き、自分がイノベーションを起こす当事者になるのだという意識を全員が明確に持っていた。東大卒をはじめとする偏差値社会の勝者が、そのような働き方を選ぶ時代が到来していたとは驚きであり、彼らの話を聞くほどに愉快であった。
教育も含め、この国のシステムにさまざまな欠陥がある。でも、そこから勢いよく芽吹く人材も出てきている。知識人が嘆いている隙に、時代がいい意味で勝手に動き始めてもいるのだ。