東日本大震災以来、情報ツールとして再認識されているラジオ。そんな注目のメディア・ラジオの昭和史に残る最大の番組であり、いまだに人気が衰えないモンスター番組『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)とは一体どんな番組だったのか。
昭和42(1967)年10月、糸居五郎さん(故人)の「君が踊りぼくが歌うとき、新しい時代の夜が生まれる(中略)フレッシュな夜明けをリードする『オールナイトニッポン』」という名調子とともに番組はスタート。
当時の深夜放送は、トラック運転手などの深夜労働者や大人向けのトークが中心だったことから、若者向けにと企画されたのが『オールナイトニッポン』だ。
月~土曜、深夜25時から29時まで。4時間に及ぶ深夜放送は、当時盛り上がっていたフォークやロックなど最新楽曲を流し、瞬く間に社会現象となった。
「放送が始まった頃の日本は、今のように電灯やビルもないから真っ暗だった。一家に1台といわれたテレビは24時で放送終了。情報を得るのは部屋に持ち込める小型ラジオだけ。だから新しい音楽が次々に生まれた時代とマッチし、受験勉強をしている若者に受け入れられたのでしょう」
“カメ”の愛称で人気を得た初期のパーソナリティーにして、後にニッポン放送の社長となる、亀渕昭信さんはそう振り返る。
「当時のリスナーは中高生が中心。時には2万通にも及ぶリクエストはがきのすべてに目を通し、トーク内容から選曲まで、自分たちで行いました。関西で話題だった『帰って来たヨッパライ』を流した時は、放送中から問い合わせが殺到し、5回も流した。今では考えられないよね」(亀渕さん・以下同)
1973年7月からは制作側にまわり、歌手やタレントを起用するなど、表と裏から番組にかかわり続け、今は30年ぶりに洋楽を紹介するラジオ番組を担当している。
「あの頃は“名前を読め!”だったリクエストはがきが、今はラジオネーム(放送上の名前)が書かれたメールになったのがいちばんの変化かな。それでもリスナーとの距離は変わらない。テレビは3m、ラジオは30cmといいますが、今はイヤホンで耳に直接、そのくらい近いよね」
今でも“オールナイトニッポンを聴いていました”“はがき読まれました”とリスナーから声がかかることもある。何より、「番組がよき思い出として残るのがうれしいね」。
※女性セブン2014年4月3日号