3・11東日本大震災の被災地、宮城・石巻市は、コラムニストの木村和久さんが高校卒業までを過ごした地。木村さんが、縁ある人々の安否を自身の足で訪ねながら、震災直後から現在の状況までをレポートします。今回は3年が経ち、追悼行事や未来に向けてのイベントについて。
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東日本大震災から、3月でちょうど3年が経ちました。石巻では3年目に向けてさまざまな追悼行事や未来に向けてのイベントが行われました。
そんな3月11日を巡る動きを踏まえて、将来の石巻像を模索してみたいと思います。
まず3・11直前の週末、東京に石巻の人が大挙集まりました。それは「いしのまき大同窓会」という、在京の石巻人の総決起集会的イベントを行い、復興をテーマに語りあったのです。総勢120人強ですから、かなり動員がかかってますね。
そのイベントの前日、実は私は大同窓会の委員たちと対面していました。この同窓会は、30年来の友人の大河原惇くんが代表のNPOが主催しており、彼が実行委員長的な存在です。大河原くんと以前に会ったのは1990年代、お互いの父親も同級生で、親子2代のつきあいで仲良し、久々に旧交を温めあいました。
そこで石巻の抱えるさまざまな問題点が浮かび上がり、どう変えるか議論白熱です。その情報を基に、今度は石巻に帰り、実地検分となりました。
まず2020年開催予定の東京五輪に、石巻を聖火ランナー出発地として誘致し、国立競技場の聖火台を持ってきたいという動きがあります。
東京五輪のサッカー予選は、宮城県で行う案が浮上しており、復興五輪は現実味を帯びてます。もちろん聖火ランナーは石巻を通るでしょうが、出発点となると、どうでしょうか。今後なぜ石巻が出発点なのかをアピールしていかないと。長くも地道な活動を見守るしかありません。
ちなみにと、もし聖火台誘致が成功したら、どこに置くのか? 第一候補の南浜地区に行ってみました。ここは地震、津波、そして大火災が起こり、まさに生き地獄が展開された場所です。今は区画整理中で、住んでいる家が一軒もない分譲前の造成地のようです。今後10mぐらい地面をかさ上げして復興祈念公園にする案が濃厚です。
あくまで公園の話はプランであり、今後二転三転する可能性があります。それは復興自体が流動的で、変更を余儀なくされているからです。つまり復興がはかどらず、石巻に戻る人が減っているのです。だから復興住宅を作るにも、どれだけ作っていいか、戸数すら決めかねているのです。
人口流出が顕著なのは、最も被害を受けた湊地区と門脇地区です。前回の本稿で、私の母校湊第二小学校が閉校と書きましたが、全盛期は全校生徒1000人超のマンモス校だったのに、今や6学年合わせて100人ほど。これじゃあやっていけないというので、湊小学校に編入です。同様に門脇小学校も生徒数が減り、石巻小学校に編入されました。せめてもの救いは、母校湊中学校が、4月から本校舎で再開することです。
湊中学校の卒業式がテレビで放映されていましたが、この3年間、毎日スクールバスで送迎されて、遠く離れた小学校のプレハブ仮校舎で勉強していました。つまり今年の卒業生は、1年生からずっと仮校舎で過ごしていたのです。一度も本校で授業を受けずに卒業とは、悲しいですよね。その中で耐えて勉学に励んだ後輩たちは、ほんと偉い。
ちなみに湊中学では、スケートで金メダルをとった選手のお父さんが教鞭をとっています。ちょっと自慢です。
※女性セブン2014年4月10日号