口の中の衛生状態を改善し、噛む機能を回復すると、寝たきり老人が歩き出す──こんな耳を疑ってしまうような事例は、歯科医の間では「当たり前」になりつつある。
噛んで飲み込む機能の重要性をレポートした『噛み合わせが人生を変える』(日本顎咬合学会著)のエッセンスに最新臨床例を加え、「奇跡の歯科医療」の最新事情を報告する。
81歳・男性のAさんは脳梗塞で倒れ、3年間寝たきり状態が続いていた。自宅で妻の介護を受けていたが、食べることも、しゃべることもできなかった。家族は何とか口から食べさせたい一心で、大分県で開業する河原英雄・歯科河原英雄医院院長の元を訪れた。
来院当初のAさんは両脇を支えられても歩行ができず、表情はぼんやりとし、口元が半開きで舌がのぞいていた。義歯(入れ歯)が合っていなかったため、満足に噛めなかった。
河原院長の治療は食物を噛める義歯を作ることから始まった。
「噛むことを忘れていたAさんに必要なのは、咀嚼のための筋力を回復させることでした。そのために口を開閉する口腔リハビリを行ない、家庭では介護食を利用して、食べる訓練をしてもらいました」(河原院長)
その効果はすぐに現われた。Aさんは治療を受けるたびに生気を取り戻し、通院6~7回で噛めるようになった。同時に医療用のガムでさらに噛む力を回復させるべく「ガムトレーニング」を開始した。
このガムは元々子供の噛む訓練用のものだったが、河原院長は義歯につかない特徴に着目し、高齢者用に応用したのだ。
すると、2か月後には脇を支えられれば歩けるようになり、丸くなっていた背筋もまっすぐ伸びてきた。表情にも笑みが戻ってきた。
「咀嚼能力を試すためにりんごを食べてもらうと、『おいしい』という言葉が出たのです。来院して初めて発した言葉でした」(河原院長)
4か月後、Aさんは介助なしで診察所内を歩けるようになった。足取りもしっかりし、手すりにつかまりながら自力で階段を降りることもできた──。
この奇跡的ともいえる回復は、なぜ起きたのか。河原院長からは、次のような極めてシンプルな答えが返ってきた。
「薬も点滴も使わず、ただ噛めるようにしただけなのです」
※週刊ポスト2014年4月25日号