生死の境をさまよった転落事故(2012年8月)から奇跡の復帰を遂げ、以前と変わらず第一線で活躍し続けている市川染五郎。中村勘三郎さん(2012年12月逝去、享年57)、市川團十郎さん(2013年2月逝去、享年66)を相次いで失った歌舞伎界で、次代の牽引役としての役割が期待されている。名門・高麗屋の屋号を背負う者として、どんな信念と矜持を胸に抱いているのだろうか。
歌舞伎以外に趣味はない。強いて言えば、歌舞伎に対する妄想を膨らませるのが趣味だと公言する染五郎。本人は「歌舞伎が好きでしょうがないんです」とはにかむが、その生き方はどこまでもストイックだ。
「何かひとつのことにまい進して、それに一度きりの人生を懸けているというか、そういう生き方にかっこよさを感じますね。“これをやったら明日倒れるかもしれない”という状況でも、目の前のことに100%の力を注ぐ。その積み重ねが大事だと思っています」(染五郎・以下「」内同)
ひとつひとつ言葉を選びながら、ゆったりと落ち着き払って話す。「歌舞伎役者にならないといけないという義務感や責任感よりも、やりたいという憧れが強かった」が、当初「染五郎」の名を継いだ時は重圧と闘っていたという。
「歌舞伎界が特殊なのは、親が付けていた名前を自分が名乗るってことですよね。最初の頃は“自分が染五郎です”と胸を張っても、周りは父親をイメージするから、なんかしっくりこないねって言われるんですよ。それが結構悩みの種になったりする。自分の色を出す前に、親の付けた色を消さなきゃいけないわけです。半端なことはできないっていうのが襲名のひとつの意味だと思いますね」
それだけに、父・幸四郎の古希を祝う舞台で引き起こしてしまった転落事故については「家族や関係者に申し訳ない気持ちでいっぱい」と顔をしかめる。本番中の舞台から3m下の奈落へ転落、床にたたきつけられた時は鼻や口から大量の血があふれ出すほどの衝撃だった。頭部と右半身の打撲、右手首の骨折で意識を失った彼はベルトで担架に固定され、酸素マスクをつけた状態で病院に運びこまれた。
「それから1週間くらいは記憶が途切れ途切れでしたね。意識があってしゃべっていたみたいですけど、今では何も覚えていません。妹にも心配をかけましたね。舞台に立っても、“あぁ舞台なのか〟って現実を認識するのに時間がかかりました。
もう二度と舞台に立てないと思っていましたから、今こうして再び舞台に立てているということが思った以上に嬉しかったというか、嬉しい自分に驚いているというか。みなさんにはありがたい気持ちでいっぱいですけど、これからしっかりやっていかなければという責任は強く感じます」
※女性セブン2014年4月24日号