日本のフラメンコの先駆者であり、今なお現役で踊り続ける舞踏家・長嶺ヤス子(78才)。情熱的なライブステージを年に数回行う一方、福島・猪苗代町にある自宅では、捨てられた猫や犬と暮らし、油絵を描く日々。裸足で踊るパワフルな舞台からは想像できないほどの穏やかな顔で取材場所に現れた彼女が語るフラメンコとは――。
「私がフラメンコに出合ったのは、踊りよりも音楽の方が先。中学生で初めてフラメンコ音楽を聞いたとき、音の強さに感動してこの音楽で踊りたいと思ったの」(長嶺・以下「」内同)
1936年、福島県会津若松市で生まれた長嶺は、3才の頃から踊り始め、17才でスペイン舞踊に出合う。
青山学院大学を中退し、スペイン・マドリードに留学。3年間の修業の後、彼女は、スペイン随一のフラメンコのライブハウス『タブラオ・コラル・デ・ラ・モレリア』(以下・タブラオ)に、日本人として初めて出演するまでになった。
裸足で情熱的に踊る姿とは対照的に、優しく穏やかに語る長嶺。まずはスペイン時代から話してくれた。
「当時は大変だった。フラメンコは、スペイン人やロマの人たちが踊るもので、東洋人の私が努力しただけでどうにかなるようなものではなかったの。伝統と民族という大きな壁があって、まるで、歌舞伎に外国人が出るくらい難しい状況で…。
タブラオでは、メーンダンサーになれたけれど、私の踊りはフラメンコの枠からはみ出しちゃうから、どうしたらいいのか悩みながら、それでも踊るしかなかったわ。
でもそんな時、スペイン舞踏の第一人者であるアントニオ・ガディスのプロデューサーに声をかけられたの。
『日本人のあなたがスペイン人と同じように踊ろうとしている。でもそれは本当のあなたの踊りではない』って」
数日後、ガディスとともに訪れたバルセロナの海岸で、裸足になって砂浜を走り、波と戯れる彼女の姿を見たそのプロデューサーは、「これがヤス子の本当の姿だ。裸足で踊りなさい」と、さらにアドバイスをくれたという。
「私の前にも裸足で踊るフラメンコダンサーはいましたが、彼女はステップを踏んだ時の音が出なかった。フラメンコって、音がしっかり出るくらい力強くステップを踏むと、どうしても足の指に負担がかかってしまう。私も最初は足を傷めて、1か月半は歩けませんでしたが、それを2回繰り返したら、力強く踏めるようになった。でもそこまでする人はいないから、裸足で靴を履いたようにフラメンコのステップが踏めるのは、世界中で私ひとりじゃないかしら」
当時、彼女が裸足で踊る姿を見たスペインの批評家たちは、「200年前のフラメンコだ」と絶賛。以来、「裸足の舞姫」と呼ばれるようになる。1977年、日本で『サロメ』を踊るため凱旋帰国した彼女は、マネジャーに逃げられ莫大な借金を背負う。
そんな彼女に追い打ちをかけるように、公私ともに11年間のパートナーだったダンサーのホセ・ミゲルが帰国。3年後には正式に離婚する。
「彼は浮気者だったし、男女としての心はすでに離れていたからつらくはなかった。でも、フラメンコから絶縁されるみたいで悲しかった。というのも、私の踊りは変化しているから、その頃すでに純粋なフラメンコではなくなってきていたわけ。だけど、彼と一緒に踊っている限りはフラメンコだと思えたから」
※女性セブン2014年5月1日号