1974年からNHK総合テレビで毎週日曜18時から40分間放送されていた伝説の歌番組。それが『レッツゴーヤング』だ。カリスマ的な人気を誇ったこの番組には、“新御三家”や田原俊彦(53才)、松田聖子(52才)など当時のトップアイドルが多数出演。歌やトークを繰り広げていた。
2012年11月、『レッツゴーヤング』が1日だけコンサートで復活した。1977年に結成された『レッツゴ―ヤング』(以下・レッツヤン)オリジナルグループ、サンデーズの初代メンバーで2年活躍。その後司会に抜擢され、番組終了までの7年間務めあげた。まさに“レッツヤンの顔”といえる太川陽介(55才)。
「ぼくが初出演した1977年当時、司会は作曲家の都倉俊一さんでしたが、翌年には人気絶頂だった狩人とピンクレディーが担当することになったんです。その時、ぼくはサンデーズ2年目だったにもかかわらず、“次は自分が司会をやる!”と強く思ってね。それで当時、番組の進行は台本通りに行われていたのですが、ぼくは、どうしたら番組が面白くなるのかを一生懸命考えて、アイディアをディレクターに提案したりしていたんです。その努力が報われたのか3年目には夢が叶いました」(以下・太川)
番組はNHKホール(東京・渋谷)で公開収録されていた。
「放送時間と同じ40分間で収録していて、ほとんどカットなし。時間調整も司会の仕事。ちょっとでも時間が長くなってしまうと、ぼくたち司会が本番中に台本を短縮したりしていました。セット替えの時にスタッフが画面に映っているとか、ある程度のハプニングもそのまま放送していたので、生放送だと思っていた人も多かったですね」
出演者が歌詞や振りを間違えても、撮り直しはほとんどしなかった。その臨場感を大切にしてきたからか、レッツヤンの人気はさらにうなぎのぼり。1980年代には近藤真彦(49才)などカリスマ的な人気を誇った男性アイドルが続々登場し、会場の熱気は最高潮に達した。
「あの頃は、観客の声援で隣にいる人の声が聞こえないほどで、口の動きを見て何を言っているのか判断して進行していました。 番組にはシンディ・ローパー(60才)のような海外の大物アーティストもたくさん出演しましたが、彼らが毎回、会場の熱気に驚いている姿を見るのも楽しみでした」
太川が司会を務めた1979~1985年度まではアイドルがメーンで司会を務める時代だった。なかでも1981年度は当時、人気絶頂だった田原俊彦や松田聖子と番組を進行した。
「彼らは本当に多忙でしたから、なかなかゆっくり話す機会はありませんでしたが、聖子ちゃんはアイドルなのに、ロボットのかぶり物とかして、体を張ったコントを披露したりしていて、すごいなと思いました」
本番以外はプロとして、ある程度の距離感を保っていたと語る太川だが、サンデーズをはじめとするレギュラー陣に対するスタッフの信頼は篤かったと懐かしそうに微笑む。
「サンデーズは毎年のようにメンバーが入れ替わっていましたが、メンバーたちの相談にもよくのりました。収録が終わると何人かうちに呼んで食事会をして、仕事やプライベートな悩みを聞いたりして。日高のり子ちゃん(年齢非公開)や坂上とし恵ちゃん(50才 現、野々村真夫人)など女の子も来ましたが、マネジャーさんは“太川さんのところなら大丈夫”と快く送り出してくれてね。年齢が5才くらいしかかわらないのに、サンデーズのみんなはぼくのことを、“お父さん”と呼んでいて。まさにレッツヤンの仲間はぼくにとって、家族のような存在でした」
※女性セブン2014年5月1日号