プロ野球で優勝するようなチームには必ず“仕事人”と呼ばれるいぶし銀の選手が存在するが、そんな先週を上手に起用したのが、巨人や西鉄、大洋などで采配を振るった三原脩監督だ。スポーツライターの永谷脩氏が、“三原マジック”の申し子だった代打男・麻生実男の思い出を語る。
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大洋(現DaNA)の合宿所が、巨人の多摩川グラウンドを挟んで東横水郷近くにあった頃。本拠地・川崎球場からその合宿所への帰り道には、吉原(東京)に次ぐ歓楽街「堀之内」があった。
大洋が日本一を達成した1960年、当時の三原脩監督は、選手を勝負所で打席に送る時、「今夜は堀之内で遊んでこいや。最初に来た“娘”にゴツンやで」と言って、ポケットに1万円札を忍ばせたという。「娘」は「ボール」に掛けている。つまり“初球を狙え”ということだ。「初球にストライクが来る確率が一番高い」という、三原の持論から来る指示だった。
これを教えてくれたのは、当時の主力投手だった鈴木隆である。その時連れて行ってもらったオーシャンバーのテーブルには、飲みかけのハイボールが置いてあり、スツールの横では、「元祖・代打の神様」として大洋の優勝に貢献した、麻生実男が酔いつぶれて眠っていた。
「見とけよ、アイツが女の子を口説くときには、必ずブサイクな娘から最初に口説くぞ」
鈴木は笑ってそう言うので、「(フラれないための)安全策ですか」と聞き返すと、「というよりは“確率”やな。相手も警戒しているから、初球は“打てる”ストライクを狙う。悲しい打者の性だよ」
こう語っていたのを思い出す。
麻生は打力こそ優れていたが、守備に難があった。三原は大洋監督に就任したキャンプ初日、プロ2年目だった麻生の守りを見て、「お前の守りじゃプロでは銭が取れん」とたった一言告げて、ベンチに向かう。
しかしその時、ケージに立てかけていた2本のバットに目が留まった。タイ・カッブ式の“すりこぎバット”。マネージャーに「あのバットを持っているのは誰か」と聞くと、麻生の物だった。
「ホームランバッターではない麻生が、すりこぎバットのグリップを加工してミートしやすくしている。それを見た時、これは使えると思った。そういえば、打撃練習でも第1打席に一番いい当たりをしていた」(三原)
その後、三原は麻生を代打専門として起用、「代打男・麻生」が誕生したのである。
三原監督で初優勝した60年は、巨人戦での代打率が.577を記録。シーズン打率が.254に対して、代打率が.308であることを考えれば、いかに一打に賭ける集中力が高かったかを偲ばせる。大洋が2度目に優勝を争っていた62年には、麻生は代打専門として初めて、オールスター戦に監督推薦で選ばれ、押しも押されもせぬ「代打の神様」となったのだった。
※週刊ポスト2014年5月2日号