【書評】『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳/筑摩書房/1600円+税
【評者】香山リカ(精神科医)
「黒子のバスケ」脅迫事件公判で被告人が読み上げた冒頭陳述の全文が、ネットで公開されているのでぜひ読んでみてほしい。自らの犯行を自嘲的に「社会的安楽死」と呼ぶ被告人は、母親に「醜い」と言われ父親からは暴力を受けながら成長した。心理的・身体的虐待だ。
「虐待を乗り越え立派に生きている人もいる、これは甘えだ」などと言う人がいたら、今度は本書『消えたい』を読んでもらいたい。親からの虐待が子どもの心にどんなに深い傷を残し、その後の人生を変えてしまうのかを、現場の精神科医からのリアルな声を通して知ってほしいのだ。
著者は、虐待を受けておとなになった人たちは、診察室で一見、問題なく見えても私たちとは別の世界を生きていると言う。時間の感覚がない、何が食べたいのかわからない、自分が誰なのかわからない、という中で、なんとか見よう見まねでふつうに生きるフリをする。
感情や感覚を親と共有したり「そうだね」と承認してもらったりしたことがないので、何を感じるのが正しいのか、誰を信頼していいのか、まったくわからないままなのだ。著者はそのことを「社会的存在になれなかった」と言う。
この人たちに、従来の薬物療法や心理療法はあまり効果がない、というのが著者の考えだ。「本当の自分を知りたい」「愛情や感情を受け取りたい」という欲求が目覚めるのを待ち、それまで自分が異邦人として生きてきた世界が崩れる恐怖との戦いを乗り越え、愛されていいんだ、幸せになっていいんだ、という気持ちを受け入れるまで支える。本人にとっても治療者にとっても困難な道のりだ。
私は本書を、虐待を受けた人だけではなく、そうでない人にこそ読んでもらいたい。怒られながらもかわいがられて育つのは、なんと幸運なことなのか。「おいしい」「阪神がんばれ」と心おきなく感情を口にできるのは、なんと恵まれたことなのか。自分の幸せを改めて知るきっかけになるはずだ。
※週刊ポスト2014年5月9・16日号